内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

この本をより多くの人が読み、深く共感すれば、それだけ世界は意味豊かに、より生きるに値するものになると私は思う ― 西村ユミ『語りかける身体 看護ケアの現象学』読中ノート(2)

2020-07-30 21:16:12 | 哲学

 第二章を読み終えました。第二章は、植物状態患者専門病院に務める看護師Aさんが語った看護経験を、Aさんの中に流れる文脈に沿って再構成し、記述した聞き書きです。このインタビューは、約一年間に渡り、七回行われました。その際のAさんの言葉遣い、言い淀み、躊躇い、言い直し、インタビュー間の心境の変化などを 、できるだけ忠実に再現することに細心の注意を払って構成されています。
 本書の第三章は、その語りの中のAさんの微妙な表現の襞を細やかに分析しながら、前意識的な層が語り出されていると考えられる知覚経験を、メルロ=ポンティの身体論を手がかりに記述しています。世界の意味の生誕地である、一人の人が他の人たち(ここでは看護師Aさんがプライマリーナースとして看護に携わった三人の植物状態患者)と前意識的な層で関わる生ける現実の現象学的記述から、人と人との関係の実存的意味の基層を析出していくその手際と到達点は、術語を巧みに操るだけの「表層的」なおしゃべり現象学者たちにはまったく手の届かない領域に達しています。
 その第三章には、読み終えてから立ち戻るとして、明日からの記事では、その第三章において著者が第二章で再構成されたインタビューから拾い上げていく論点とは独立に、私自身が特に興味をもった箇所を順次摘録していきます。第二章全体があまりにも深く豊かな内容なので、その摘録はそのごく一部に限られます。
 拙ブログのこの記事を読んでくださり、本書にご興味をもたれた方には、是非本書を手にとって読んでいただきたい。通常、自分の読んだ本の紹介をこのブログでするとき、あくまで自分にとって何が面白かったかに話を限定し、人様にそれを薦めるということを私はめったにしませんが、この本はできるだけ多くの人に読んでもらいたい。敢えて大げさな言辞を弄すれば、本書に深く共感する人が増えれば増えるだけ、世界はそれだけ意味豊かで生きるに値するものになるとさえ私は思っています。
 今日のところは、著者によるAさんの紹介を摘録しておきます。
 Aさんは関西出身の二〇代の女性で、二人姉妹の長女として育てられた。高校三年生のとき社会福祉科と宗教科の大学を受験するが、失敗。二年間の浪人を余儀なくされる。浪人中の約一〇カ月間は、受験料を稼ぐために精神科病院の老人病棟でヘルパーとして働いた。看護師になろうと思ったのは、母親の友人の看護師長に勧められたのがきっかけだった。浪人中の二年間に両親が離婚し、その後は母親と二人暮らし。
 看護の教育を受けた大学は、公立の看護短期大学。在学中には新聞配達をして家計を支えつつ、サークル活動でさまざまな大学の学生たちと医療について考えるという活動を行っていた。
 インタビュー当時Aさんが働いていた施設(そこでAさんは十七年後も働いていることが、文庫版のあとがきからわかる)は、植物状態と診断された人たちのみを専門に受け入れる病院(本書では一貫してTセンターという仮名が使われている)である。同センターは、一九八四年に、交通事故によって植物状態となった患者に十分な医療とケアを提供すること、およびこのような患者の家族を救済する目的で設置された。現在、こうした施設は国内に九施設ある。
 インタビュー開始時、AさんのTセンターにおける勤務年数は約四年。第二章は、Aさんの語りそのものを読み味わってもらうために、できる限り語られた表現で記述されています。その語りの前後の状況が著者によって補われ、Aさんによって語られた経験の意味の著者による理解がさらにそれに加わりますが、なんといってもAさん自身の繊細な感受性に満ちた語りが素晴らしく、読みながらなんどもハッとさせられ、立ち止まって考えされられました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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