内的自己対話-川の畔のささめごと

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私たち自身が形成を心がける動きに満ちた状態に身を置くこと ― ゲーテの形態学の要諦

2020-08-22 23:59:59 | 哲学

 冨山房百科文庫の一冊として刊行されているゲーテの『自然と象徴 ― 自然科学論集 ―』(一九八二年)は、折に触れて本棚から取り出して数頁読むということを二十年以上続けている本の中の一冊で、それだけ愛着がある(このことについては、今年の一月三十一日の記事で話題にした)。
 植物の現象学について考え始めたとき、ゲーテの形態学のことを当然真っ先に思い起こした。『形態学論考』誌 序 ― 有機的自然の形成と変形 ― の中の「研究の意図」の一部がビュルガの本に引用されていたので、その前後の段落もあわせて読んでみた。ちくま学芸文庫から木村直司訳『ゲーテ形態学論集・植物篇』(二〇〇九年)も刊行されているが、私は冨山房百科文庫の高橋義人訳を好む。

 ドイツ人は現実に存在するものの複雑なあり方に対して形態(ゲシュタルト Gestalt)という言葉を用いている。生きて動いているものは、こう表現されることによって抽象化される。言いかえれば、相互に依存しながら一つの全体を形成しているものも、固定され、他との繋がりを失い、一定の性格しかもたなくなってしまうのである。
 しかしありとあらゆる形態、特に有機体の形態を観察してみると、変化しないもの、静止したもの、他との繋がりをもたないものはどこにも見出せず、すべては絶え間なく動いて已むことを知らないことがわかる。だからわれわれのドイツ語が、生み出されものや生み出されつつあるものに対して形成(ビルドング Bildung)という言葉を普通用いているのは、充分に根拠のあることなのである。
 それだけに形態学(Morphologie)の序文を書こうとすれば、形態について語ることは許されない。やむなくこの言葉を使ったとしても、それは理念や概念を、つまり経験のなかで束の間固定されたものを指しているにすぎない。
 ひとたび形成されたものもたちどころに変形される。だから自然の生きた直観に到達しようとするならば、われわれ自身が自然が示してくれる実例に倣って、形成を心がける動きに満ちた状態に身を置いていなければならない。(三八-三九頁)

 特に最後の段落で言われている自然に対する態度を私たちは忘れがちなのではないかと、この箇所を読み直しながらあらためて思った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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