内的自己対話-川の畔のささめごと

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主体概念を問い直す手がかりとなる近現代のテキスト(6)― 自己と他者の区別が未分化な次元の存在に気づくこと

2022-07-28 11:56:00 | 哲学

 主体概念を問い直すためのテキスト第六弾は、西村ユミの『語りかける身体 看護ケアの現象学』(講談社学術文庫 二〇一八年 原本 ゆみる出版 二〇〇一年)である。本書については、二〇二〇年七月二九日から八月六日にかけて九回連続で取り上げている。本書の内容の詳細についてはそれらの記事に譲るとして、今日の記事には特に主体概念に直接言及している箇所を第一章「〈植物状態患者の世界〉への接近」から挙げておく。

このように植物状態患者の、身動きがとれず声を発することができない、あるいは認識できているか分からない状態では、彼らはただ身を曝すよりほかなく、知らず知らずのうちに私たちはこうした患者を突き離し、外側から観察してしまっているのである。というのも、人間は外側から客体として見られる限り、物体としての身体という存在としてある。とりわけ植物状態患者の場合、そのように見られがちになり、他者と関係できないと定義づけられてしまうのである(p. 40)

 もっぱら客体として扱われることで主体性を剥奪された生ける身体にどのようにして主体としての尊厳を回復させることができるか、それが本書を貫く実存的な問いである。
 患者に対する自然科学的態度として、臨床生理学的方法を採用するにせよ、グラウンデッド・セオリー・アプローチ(生理学的測定法によっては触れることのできなかった物事の意味と、この意味が導き出される社会的な相互作用に注目する理論で、「データ対話型理論」とも訳される)を採用するにせよ、患者の主体性を回復させることはできない。

 要するに、これらの方法論および、植物状態患者の定義の背後に潜む問題は、植物状態患者が目に見える次元において何らふるまいも見せないし、言葉も発しないことから、彼らを観察される客体としての立場から連れ出すことができずにいたこと、にあったといえよう。というよりも、見ている私たちの側が、客体としての身体の内に彼らを押し込んでしまっていたのだ。植物状態患者に近づくっためには、よほど注意深く取り組まなければ、彼らをいとも簡単に物的存在へと貶めてしまうことになる。つまり、物事を細部にわたって分析し、その本質を見極めようとする自然科学的思考に慣れた研究活動そのものが、私たちを不断にそのような志向へと導いている。見る主体と見られる客体とが明確に分離されてしまったとき、植物状態患者は他者との交流を閉ざされてしまうのである。この主客分離の二元的枠組みを乗り越えられない限り、彼らとの交流の可能性は見えてこない。(p. 43)

 著者にとって、この二元的枠組みの乗り越えを可能にしてくれるのが現象学的アプローチである。とりわけ、メルロ=ポンティの知覚の現象学が科学的な認識以前の「生きられた世界」に立ち帰ること、すなわち「世界を見ることを学び直す」ことへと私たちを導く。

現象学では、知覚された経験を、それ自体として存在するものではなく、「それを思ったり感じたりする人間の側の志向との関係の中で現象すること」、として捉える。知覚経験では、関係が第一次的であり、関係の両項である知覚する主体と対象の存在は、関係の成立を前提としているという意味で第二次的なものである。関係によって現象する経験は、つねに解釈によって更新され、新たな「意味」として生成し続けるものと考えられている。(p. 44‐45)

主体と客体の分離の克服、これも重要な課題と考える。おそらくこの視点は、精神と身体、自己と他者等々、こうした二極に分離された世界から、植物状態患者を、さらには私たち自身を救い出すことにつながるであろう。現象学では、見るものと見られるもの、つまり主体と客体という図式によって人間存在を理解しようとしない。現象学が立ち帰ることをめざしている「認識以前の生きられた世界」とは、主体と客体という区別がまだなされていない次元のことをいう。この際、主体・客体のいずれにもなり得る両義的な私たちの〈身体〉こそが、生きられた世界経験の具体的な出発点とされる。〈身体〉は世界とのつながりであり、〈身体〉があるからこそ、世界との対話となるのである。植物状態患者と看護師とのはっきりとは見てとれない関係を開示するには、この視点が非常に重要な意味をもってくるのである。(p. 45‐46)

 そもそも自分自身の〈身体〉は、自らの目の前に客体としてあるのに先立って、まずは世界を知覚し経験する媒体、世界が現われるための媒体としてある。例えば自分の右手で他者に触れたとき、私にとってこの右手は、見える対象物、他者の身体を接触する物体として意識される以前に、他者の体のぬくもりが伝わり、その〈身体〉との一体感を得る経験として現われるであろう。このような自分の〈身体〉に立ち帰ることによって、私たちは主体と客体、自己と他者の区別が未分化な次元の存在に気づくことになる。(p. 46‐47)

 たいそう長い引用になってしまったが、それは、学生たちと一緒に主体の問題を考えていく上でそれだけ重要なヒントを与えてくれるテキストだと思うからである。授業では、具体的な事例をめぐって彼らと議論し、問題の理解を深めていきたい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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