内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

天地有情の一元論 ―「心身景一如」論のための覚書(三)

2015-02-23 06:06:12 | 哲学

 形容詞「さびし」は、「荒れる、荒涼たるさまになる」という意味の動詞「さぶ」から派生したという語史的事実からも、この形容詞が属性と情意とを同時に表現するのに適した語であることがわかる。
 序だが、この「さぶ」が中古末期から中世初期にかけて、俊成によって、「外見は殺風景なようで、内に孤独な静かさの趣がある」の意とともに、美のひとつと認められ、「室町時代までは「さびたる姿」「姿さびて」など、動詞の形で現れるが、蕉風の俳論に至り「さび」という名詞の形が用いられ、表現理念として確立した。蕉風俳諧では、素材の閑寂さよりも句ぜんたいから感じられる、しみじみとした清澄さをさしていた」(小西甚一『基本古語辞典』大修館書店、新装版、二〇一一年、「さび」の項より)。

花も散り人も都へ帰りなば山さびしくやならんとすらん 
                                                       (『山家集』上・春)

桜の花が散ってしまい、その花を愛でに来た人たちも都に帰ったならば、山は再び寂しくなることであろうというこの西行の歌に詠まれているのは、人たちの去った後の荒涼とした山の風景であり、その風景は、その中に佇んでいる身の心の反映というよりも、その心そのものなのであり、その中に我が身も佇んでいる。

うらさぶる心さまねしひさかたの天のしぐれの流れあふ見れば
                                                       (『万葉集』巻一・八二)

この歌の中の「うらさぶ」という動詞も「さぶ」から来ており、荒れてゆく様を言う。「うら」については、小西甚一『基本古語辞典』の接頭語「うら-」の項に、私たちにとってきわめて示唆的な注記がある。「本来は「心」の意の名詞だったと考えられるが、用例としては単独の場合がなく、いつも他の語に伴われているので、接頭語にあつかう。「心のなかで」という意味を示すが、これを除いても単語としての意味は変わらないことが多い」というのである。このことは、「うら」を接頭語とした形容詞や動詞が属性と情意との綜合的表現であることの一つの証左になっている。
例えば、大伴家持の春愁絶唱三首のうちの最初の一首を見てみよう。

春の野にかすみたなびきうらがなしこの夕かげにうぐいす鳴くも
                                                       (巻十九・四二九〇)

 この名歌中の名歌の中の形容詞「うらがなし」も、春愁の風景における心身景一如の要となる表現でなくてなんであろうか。うらがなしさそのものである風景の中に、霞がたなびき、うぐいすが鳴き、それを見、聞く我が身が立っている。外なる春の野の風景に触発された孤独な心の内に悲しさがあるのではない。
 先に掲げた万葉歌に戻ろう。この歌については2014年1月21日の記事で一度拙釈を試みている。その時参照した二つの注釈が掲げていた現代語訳の一つは、「心寂しい想いで胸があふれるほどだ、(ひさかたの)遠い空から、しぐれの雨が交差しながら流れるように降って来るのを見ると」(新版「万葉集(一)」岩波文庫)となっている。訳の前半で、「心寂しい思い」が、「さまねし」という形容詞(より正確には、「数多い」「度重なる」等の意の形容詞「まねし」に語調を調える接頭語「さ」が付いたもの)によって、胸にあふれるほどの身体感覚として捉えられていることには、拙釈でも賛意を表した。しかし、心の想いを普通は胸のうちにとどまるものと考えているからこそ、このような解釈も出て来るのだとすれば、「外なる」風景とそれを眺める「内なる」心とは基本的に二元的に区別されるという暗黙の了解がこの評釈にもやはり前提されているのではないかと疑われる。
 すでに拙釈でも、大森荘蔵を援用しながら、上のような緩やかな「二元論的」解釈とは異なった、いわば天地有情の「一元論的」解釈を一筆で素描してあるのだが、その解釈をここでもう少し発展させてみよう。
 時雨れる外なる風景を見ている私の身の内に外的刺激によって引き起こされた生理的あるいは心理的状態が「寂しさ」ではないのは言うまでもなく、身体のどこか一部に、あるいは身体とは独立のどこにあるとも知れぬ「心の内」に寂しさが宿るのでもない。あたかも永遠の彼方からやってくるかのように、遠い空からしぐれが降ってくるのを見ていると、その風景全体に広がるように寂しさがどこからともなくいやましに湧出してきて、その寂しさがこの身にも浸潤してくる。そのようにどこまでも染み込んでいこうとする寂しさが心なのであって、そのように寂しい風景として無限に広がっていこうとする心のうちにこの身が「束の間」置かれているがゆえに、その寂しさが我が身のこととして感受されるのである。
 以上見てきた三つの和歌は、在るものの在ることそのこととその在り方とをそれとして認め(存在了解)、ままならぬ有情の世の中に有情なるものとして棲まい(世界受容)、物事の「こと(=言・事・異)なり」の過程の内に己もまたそこで「ことなり」ゆくものとして身を置く(空間分節)、様々な仕方をそれぞれに表現している。












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