内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

歴史を「主体的に」学ぶには

2018-10-23 11:13:44 | 講義の余白から

 日本語学習はそれを主目的とした他の授業に任せるとして、私の授業では、歴史をできるだけ「主体的に」学ぶことをその目的(というか願い)としている。そのために、単なる暗記作業は一切要求しない。そのかわり、歴史の中に自ら身を置いて、感じ、想像し、考えることを要求する。課題を早めに与えて、それについて自分たち自身で授業外で調べるように促してもいる。
 もちろん、すべての学生がこの要求に応えてくれるわけではない。中には、単純な暗記作業を課してくれた方がどれだけ試験準備がやりやすいかと嘆いている学生もいるに違いない。しかし、そうは問屋が卸さないのである。
 試験問題も、覚えてきたことを試験当日に答案用紙上に吐き出せばいいような問題はけっして出さない。この原則は私の授業では前任校から一貫している。早いときには一月前に試験問題を公開し、学生たちに試験日までに十分に時間をかけて調べてくるように求める。参考文献に書いてあることを丸写しすれば答えになるような問題は当然のことながらありえない。その結果には、ちゃんと主体的に学習した学生とそうでない学生との間で歴然とした差が出る。
 評価項目はざっと以下のような諸点に関わる。
 同じ時代を対象としながら、政治史・経済史・文化史・社会史・民衆史・宗教史・美術史・文藝史などの分野でどれほど違った時代像が描かれているかを認識しているか、信頼できる複数の文献に当たり、それらを比較考量するという基礎作業に時間をかけたか、その上で自分はどの立場を取るか、そしてはそれはどうしてなのか考えたか、歴史書の記述から、そこには書かれていない当時の様々な階層の人々の物の見方・感じ方を想像してみたか、社会的階層と置かれた立場の違いによってどれほど同じ出来事が異なった仕方で経験されていたかという問題を自覚しているか、等々。
 これらの諸点について、自分で丹念に調べ、よく考えた上でなければ、まともな答案はまず書けない。よく調べてあるけれど、その成果を一つの筋の通った話としてまとめきれていない答案、筋は通っているが歴史的叙述が粗雑な答案、話は面白いのだが想像に頼りすぎていて「歴史離れ」してしまっている答案、誰の視点からかわからないような「教科書的」あるいは「客観的」な記述に終始している答案など、それぞれそれなりの努力は一定の評価に値するが、こちらの要求にすべて応えられている答案はやはり稀である。
 学部生に対して、いくら最終学年とはいえ、これは要求過大ではないかと思われるかも知れない。ところが、大半の学生は、このような課題をけっして嫌がってはいない。中には、課題を「楽しんでいる」学生さえいるくらいなのである。












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