内的自己対話-川の畔のささめごと

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痛みに対する四つの否定的態度:消沈・憤激・分離・迎合(四) ― 受苦の現象学序説(17)

2019-05-28 16:39:13 | 哲学

 痛みに対する否定的態度の四番目は、迎合(complaisance)である。フランス語の原語には、何かに迎合するという意味と自分を甘やかすという意味との両方が込められている。
 痛みが引き起こす苦しみに独り悦に入って浸るというのは、しかし、矛盾していないか。あるいは倒錯的ではないか。
 迎合は、徹底的な痛みの排除への衝動として発現する憤激とは真っ向から対立しているように見える。両者の間にあるのは、消沈と憤激との間にある対立以上に根本的な対立であるように見える。なぜなら、迎合的態度においては、痛みを自己の外に排除しようとするどころか、自己の内奥に痛みを抱え込み、それを維持し、育みさえするからである。痛みから一種の陶酔を引き出そうとさえする。この苦い享楽を人は好む。
 実のところ、憤激は迎合からそれほど遠く離れてはいない。両者の間にはむしろある種の共犯関係がある。世界に対する憤激は、世界によって自分は苦しめられており、自分には世界に反抗するだけの正当な理由があるという感情によって強化される。私は、被っている不正義そのものがつねにもっと大きく見えることを望む。それだけいっそうよく自己が正当化されると思っているからだ。
 苦しみへの迎合は、自己への迎合、つまり自己満足でもある。苦しみは、私たちのもっとも個人的な存在に属しており、ある意味で私たちの意識の繊細さの徴であるから、私たちの属性であるように思える。苦しみは、私たちを周りの人たちから引き離すが、自分を特別なものにもする。私が受け、他の人たちは知りもしない私の苦しみは、私の運命の徴であるかのようだ。
 苦しみには、それが何か例外的なものであることを望む傾向がある。それが誰にでも起こりうるようなありきたりのものではないことを望む傾向がある。苦しみへの嗜好のようなものがある。私たちが人の苦しみを見て、何とも説明し難い満足のようなものを密かに感じてしまうのはなぜだろうか。それは、その人の実存をそこで目の当たりにしているからだろうか。
 ちょっとした苦しみでさえ、私たちの注意を引きつけ、気持ちを動かすことがある。何らの苦しみも感じないままで、深い感情によって人は心を動かされることがありうるのだろうか、とさえ問うことができる。私たちの感受性が豊かかどうかは、どれだけ喜べるかどうかよりも、どれだけ苦しむことができるかによって測られるように思われる。
 人がその心のうちを明かし、自己自身のもっとも深いところまで入り込み、世界との繋がりを見つけ、自分のもっとも大切に思っていることを発見したと確信が持てるのは、自分が苦しんでいることを告白しなければならないときだけだからこそ、無数の文学作品がそれをテーマとしているのではないだろうか。
 痛みへの迎合にあって私たちを蝕む悪はなにか。世界への疑惑が自分への甘やかしと混ざり合い、自分が感じている痛みにあまりも私たちを執着させるところにそれはある。












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