内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

日々の哲学のかたち(17)― 「専門家はみな猫背である」 ニーチェ『愉しい学問』より

2022-06-23 06:57:01 | 哲学

 ESP の第五章 « Apprendre l’usage du corps » から紹介する二つ目のテキストはニーチェの『愉しい学問』(『喜ばしき知恵』)の断章366です。パヴィの本にはこの断章の全文が引用されているのですが、このブログの記事の中に引くには全文はちょっと長すぎるし、もしこの断章に特にご興味をもたれた方がいらっしゃれば、複数の日本語訳が簡単に入手できますし、図書館で借りることも閲覧することもできるわけですから、最初の三分の一ほどを紹介します。それだけでもニーチェの見事な毒舌はかなりよく味わえます。前回同書を引用したときと同様、講談社学術文庫版の森一郎訳です。

一冊の学問書を目の前にして。――われわれは、書物の間に挟まれ書物の刺激に基づいてやっと思想に辿りつく者たちには属していない。――われわれの習慣は、歩きながら、跳びながら、登りながら、踊りながら、野外でのびのび思索することだ。できれば、孤独な山上で、あるいは海岸に面して、つまり道さえもが思慮深くなるような場所が、一番よい。書物や人間や音楽の価値に関して、われわれは真っ先にこう尋ねる。「彼は歩けるのか、いやそれより、踊れるのか」。……われわれはたまにしか読書しないが、だからといって読書が下手というわけではない。――おお、われわれには何と早く分かってしまうことか。ある人が自分の思想にどのように到りついたかを。インク壺の前にじっと坐り、腹部が圧迫されるほどの前傾姿勢で、机の上の紙に頭部を屈みこませて、ではなかったかと。われわれは、その人の本をまた何と素早くこなしてしまうことか。内臓が締めつけられていることは、すぐばれるものだ、賭けてもいい。部屋にこもった空気や、部屋の天井の低さ、部屋の狭さも、同じくすぐばれる。――これが、一冊のきちんとした学問書をちょうど読み終えて閉じたとき、私が感じた複雑な気持ちであった。感謝しながら、とても感謝しながら、他方ではホッとしながら。……学者の書いた書物には、ほとんどつねに、何かしら圧迫するもの、圧迫されたものがある。つまり「専門家」が、どことなく顔を覗かせる。当人の熱中ぶり、真面目さ、憤怒、重箱の隅を突くように瑣事にこだわり過ぎること、猫背が。――専門家はみな猫背である。学者の本はつねに、ねじ曲げられた魂も映し出す。

 ここを読んで、ああ学者でなくてよかったなあと私は密かに胸をなでおろしたというのは冗談ですが、直ちに、いや、学者でさえなく、同断章の後半でニーチェが戯画化する「多芸多才な」文筆家でもなく、「無能無芸にして、ただこの一筋につながる」(芭蕉『笈の小文』)風狂の人でもなく、要するに、私って、いったいなんなの、と今更遅すぎるのですが、自問せざるを得ませんでした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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