内的自己対話-川の畔のささめごと

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日々の哲学のかたち(21)― アリストテレス『ニコマコス倫理学』のフィリア論 ② フィリアがなければだれも生きてゆこうと思えない

2022-06-27 13:13:03 | 哲学

 それでは第八巻「愛について」を読んでいきましょう。光文社古典新訳文庫版では、愛に「フィリア」とルビがふられていますが、それは省略します。
 冒頭で、「愛は徳(アレテー)のひとつであるか、徳を伴うものであり、またさらには人生にとってとりわけ必要なもの」であることが愛を論ずる理由として示されています。愛が人生にとってとりわけ必要である理由をアリストテレスは次のように説明しています。

実際のところ、たとえほかの善をすべてもっていたところで、友人がいなければだれも生きてゆこうと思えないものである。なぜなら、富んだ人々にも、支配的地位や権力を保持している人々にも、友人はもっとも必要なものだと思われているからである。実際、友人を相手にするときにこそもっともよく生まれ、そして友人相手のときにこそもっとも賞讃に値するものとなる親切な行いを、この人々が為すことはできないということになったならば、かれらのそのような繁栄は、いったい何のためのものなのだというのだろうか。そうではないとしても、親しい人間がいない場合に繁栄が維持され保全されるということは、ほとんどありえないことである。なぜなら、繁栄が大きければ大きいほど、崩壊の危険もそれだけ増すものだからである。

 この一節を読むかぎり、フィリアとは友情のことだと考えてもよさそうですね。しかし、友人とは親切な行いを為す相手のことですから、いわゆる仲良しという意味での友人には限定されません。自分が持っている徳性、才能、能力、財産、地位、権力などを、相手がもっとも生かされるかたちで用いることがフィリアですから、フィリアの対象は、単に気の合う相手や気心の知れた相手には限定されません。フィリアがないということは、自分のもてるものを生かす相手がいないということですから、確かにそれでは生きている甲斐がありませんね。いくらもてるものが多くても、大きくても、フィリアの対象がなければ「宝の持ち腐れ」に終わってしまいます。それどころか、その宝を宝そのものために維持したり保全したりするのは、それが本来の目的のために生かされないままに保持しようとすることになりますから、その宝が大きければ大きいほど、人から狙われたり、あやまった運用によって失われる危険もそれだけ増大することになります。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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