内的自己対話-川の畔のささめごと

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なぜレトリックを学ぶことがメディア・リテラシーにとって大切なのか

2022-02-27 16:32:08 | 哲学

 望月衣塑子氏は『新聞記者』(角川新書 2017年)の「あとがき」で、自分が大切にしている言葉としてマハトマ・ガンジーの次の言葉を引いている。

あなたがすることのほとんどは無意味であるが、それでもしなくてはならない。そうしたことをするのは、世界を変えるためではなく、世界によって自分が変えられないようにするためである。

 そのために彼女はメディアの世界で新聞記者として果敢な態度を堅持しつつ活躍しているわけだが、その仕事を通じて読者ともカンジ―の言葉を共有したいと願っているのだろう。Web2.0の到来以来、一般市民もまたメディアによる情報の単なる受け手ではなく、情報・意見の発信者となりうるようになったが、それは同時に、発信者としての責任も発生したということであり、その行動を律する倫理も要請される時代になったということである。
 このメディアの倫理を考えるとき、私には古代ギリシア・ローマにおけるレトリック(言論の技術)から学ぶことがとても大切に思えるのだ。
 今日、レトリックに関連するギリシア・ローマの古典はすべて優れた日本語訳で読むことができる。私は残念ながらそれらを参照する手立てがないから、主に仏語訳に頼っている。ただ、日本語訳であれ仏語訳であれ、直接古典と向き合うのは、もちろんそれが最良の途であるとわかっていても、容易なことではない。優れた注釈書を導きとして読むにしても、とても時間が掛かる。
 そこで頼りにしたいのが、優れた専門家による一般向けの良き入門書である。この点、欧米語には枚挙に暇がないほど良書がある。それは、レトリックそのものが古代からずっと大切にされてきたからである。
 プラトンが『ゴルギアス』で厳しくレトリックを批判したのも、それだけレトリックが人心に深刻な影響を及ぼすからこそである。アリストテレスが『弁論術』の講義をしたのは、言論の技術の本質を見きわめ、それを時と場面と聴者に応じて適切な仕方で運用するための基礎理論を示すためである。プラトンとほぼ同時代人であるイソクラテスの修辞学校は、「人間が端的によりいっそう人間的となる」(廣川洋一『イソクラテスの修辞学校』講談社学術文庫 2005年 「あとがき(原本)」)ための教養の原理としてのレトリックを学ぶための学校であった。
 ところが日本はそうではない。昨日の記事で取り上げた佐藤信夫氏のレトリック関連の著作を希少なる例外として、上手な話し方を解説するハウツー本は毎年掃いて捨てるほど出版されているのに、レトリックとは何かという問題を古代ギリシアに立ち返って真正面から本格的に取り上げ、それを一般向けにわかりやすく説いた本は悲しいほど少ない。
 しかし、幸いなことに、上掲の廣川洋一氏の『イソクラテスの修辞学校』と浅野楢英氏の『論証のレトリック 古代ギリシアの言論の技術』(ちくま学芸文庫 2018年 初版 講談社現代新書 1996年)という名著を私たちは持っている。
 浅野書の中の「はじめに 「言論の技術」とは何か」の「災厄をもたらすレトリック」と題された一節の次の箇所を読めば、なぜレトリックについてしっかり学ぶことが、今も、いや今こそ、必要なのか、納得していただけるのではないかと思う。

レトリックは、説得のための技術であるだけに、使い方によっては恐ろしい結果を社会にもたらします。その最たるものは、国家の支配者、独裁者たちが、政治をあやまり、レトリックをおのれの野望のために駆使するときでしょう。ものを知らない(あるいはむしろ、ものを知ることができないように管理された)多くの民衆は、歓呼の声をあげているのも束の間、やがては災厄と不幸のどん底におとしいれられるわけで、われわれが歴史のうえで幾度もみてきたとおりです。

 国家権力によって意図的に流布されたまことしやかなフェイクニュースが蔓延するメディア社会の中で生きていかざるを得ない私たち現代人がレトリックに細心の注意を払わなくてはならない理由はここにある。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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