内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

戦中日本におけるもう一つの近代の超克の試み(二)― 生成しつつある伝統的文法体系の基礎理論

2017-02-28 18:25:17 | 哲学

 昨日の記事の末尾に、時枝は山内得立『現象学叙説』から何を学んだのか、という問いを提示した。今日からその問題の考察に入るつもりでいたのだが、予定を変更して、昨日の記事で取り上げた『講座 日本語の文法 1 文法論の展開』(明治書院、昭和43年)をもう少し丁寧に読んでおくことにする。それに値するだけの中身を同書が備えていると思えるからである。
 同書の巻頭には、「監修者のことば」として時枝誠記の短い文章が掲げられている。今日は、ちょうど一頁に収められたその文章を読んでみよう。
 時枝は、その文章の中で、世にいう時枝文法とは、「実は、古典解釈あるいは和歌連歌の表現という実践活動の必要から、また、その基礎として生まれた日本の伝統的文法に胚胎したもの」だという。つまり、「この伝統的文法の根本にある言語に対する見方から」、時枝の言語過程説という「仮説的理論」が生まれたというのである。しかし、伝統的文法の根本にある言語観と言語過程説との間の関係は、単に起源とそこから派生したものとの関係ではなく、「こんどは、この理論が逆に伝統的文法の体系の成立の支えとなっている関係」だという。
 言語過程説という近代日本に生まれた仮説的理論が鎌倉時代以来の伝統的文法体系の成立の支えになっているとは、いったいどういう意味で言われているのだろうか。
 言語過程説は、伝統的文法がこれまで充分に明らかにしてこなかった日本語の文法体系構成要素により明確な規定と定義を与えることで、伝統的文法の体系を新たに基礎づけようとしている、ということなのだろうか。あるいは、伝統的文法の体系は、過去のものとなった古典日本語の文法体系ではなく、今もその生成過程にある生ける日本語の文法体系であり、言語過程説は今やその生成発展の基礎となっている、ということだろうか。
 この問いに対する答えは後日出すことにして、今日のところは「監修者のことば」の後半を読んでみよう。

 この伝統的文法の始原は、確実にはわかりませんが、私の見るところでは、仏教哲学における確実な人間分析に基礎を置くものではないかと見ております。この文法理論は、鎌倉時代以来、連綿として江戸末期にまで継承されてきたものでありますが、明治の文明開化とともに、その伝統も考え方も、根こそぎ忘れ去られてしまったものであります。これは誠に残念なことであります。

 こう述べた後、伝統的文法理論の「復活」は、容易ではないにしても、研究者たちが協力してその「第一歩の地ならし」だけでも施しておくことは、日本の文法研究と文法教育の将来にとって意義少しとしない、と時枝は文章を結んでいる。
 こう書いているからといって、時枝を単なる復古主義者と見なすことはできないのは言うまでもない。時枝の意図は、明治以降に導入された西洋近代言語学によってその本来の姿が歪められてしまった日本語の生ける文法体系を自身の言語過程説によって再度賦活しようということであろう。
 時枝の国語学者としてのこの企図の披瀝は、十五年戦争期に構想・展開された言語過程説を、もう一つの「近代の超克」論として、しかも、過去の試みの解釈の可能性の一つとしてではなく、現在私たちが取り組むべき課題がそこに包蔵されたテキストとして読む可能性を示唆している。












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