内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

陰翳をめぐる随想(七)― ものに暗さを纏わせる「源泉」としての闇

2020-01-25 23:59:59 | 哲学

 昨日の記事で、あまり考えもせずに「出処」と訳したのは « source » という語だが、次頁でミルナーはこの語を思いつきで使ったのではないと言っている。それは、レオナルド・ダ・ヴィンチの視覚論には、光の当たっていない物の部分から発出する、まさに「暗闇の放射線 rayons de ténèbres」と呼ぶべきものの放出という考えが含まれているからだと言う。これをもっと逆説的な言い方にすれば、暗闇が発する「光線」がある、ということだ。だから、この文脈でのミルナーの考えにより忠実に « source » を訳すには、「源」あるいは「源泉」の方が適切だろう。
 レオナルド・ダ・ヴィンチの絵画論の中でこの考えがより端的に示されているのは、ダ・ヴィンチが顔の表象について考察しているところだ。

光が当たっている顔の色合いは、その顔が黒い面に対しているとき、その黒い影と混合される。これは黄、緑、青その他どんな色でも、それらの色が顔に対して置かれているときに起こる現象だ。この現象は、すべての物体はそのイメージを周囲の大気中に発散することから説明できる。これは遠近法において証明されていることである。それに、これは太陽光線で私たちが経験していることでもある。太陽が照らすすべての物体は太陽の光を受け取り、それを他の物体に反映させる。[…]闇もまた同じ作用をする。なぜなら、闇はその内に隠されたすべてに暗さを纏わせるからだ。

 たとえ太陽でもつねに隈なく照らすということはないとすれば、つまり、まったき光というものが地上にはないとすれば、すべてのものはつねにいずこかの闇から放射される暗さを多かれ少なかれ纏っており、その暗さと混じり合い、その暗さから完全に分離されることはけっしてない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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