内的自己対話-川の畔のささめごと

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近世における日中それぞれの儒学の動機と方法論の類似と両者の学問に対する姿勢の差違について ― 吉川幸次郎「学問のかたち」に即して(中)

2021-05-29 16:19:54 | 読游摘録

 昨日の記事で見たように、吉川によれば、近世の日中両国の学術は「きわめて相似た形貌」を呈している。しかし、両者の間に差違がないわけではない。
 顕著な差違の一つは、我国の儒者・国学者たちは、古典を媒介として得た世界観なり人間観の全貌を集約的に且つわかりやすい言葉で綴った書物をそれぞれに残しているのに対して、中国の学者はあまりそういうことをしないところにある。そのような書物の例として、仁斎の『語孟字義』『童子問』、徂徠の『弁道』『弁名』、東涯の『訓幼字義』 『鄒魯大旨』、真淵の『国意考』、宣長の『直毘霊』『初山踏』などが挙げられている。
 彼らとて、これらの書物を自分の業績の中心と考えていたわけではない。彼らの本領はやはりその古典注釈にある。「これらの学者は、すぐれた実証主義者であり、個個の事実を丹念に熟視することによってのみ、個個の事実をつらねつつ、その背後にひろがるものは、把握されることを確信し、そうした確信の上に立って、ものを書いた人たち」である。「個体を説くものにこそ、全体についての考えは照射されているのであり、全体を全体として説いたものは、むしろ糟粕としたであろう」と吉川は言う。
 ところが、清朝の学者たちはほとんどそういう書物を残していない。しかし、そのことは、「個個の事実をつらねているもの」、つまり原理的な何ものかについて彼らが凝集された考えを持っていなかったということを意味しない。古語を解明し、伝承の真偽を決定する際に彼らが見せる推理の確かさと判断の強靭さは、その背後に確固たる全般的認識があり、それらがその「照射」であることを予想させる。ただ著者たちは全般的認識をそれだけまとめて語りたがらない。それを「個個の事実に托して、閃光のように、ひらめかせ、ほのめかす」に過ぎない。彼らは自らの方法についても語りたがらない。
 両者の相違はどこから来るのか。なぜ江戸期の日本の学者たちは自らの所説と方法論をわかりやすく要約して初学者たちに示そうとし、清朝の学者はそれをほとんどしなかったのか。この問いに対する吉川の解は次の通りである。この責務に対して、「日本の学者は、それを個人の責務としやすいのに反し、彼の国の学者は、むしろそれを社会全体の責務、乃至は人類全体の責務にゆだね、責務の完全な遂行を、より多く将来の学界の継承に待つのである。」
 両者の態度はたがいに一長一短であると吉川は言う。「日本では学問が早く凝集するかわりに、つぎつぎにあわただしく流れ去り、中国では、学問がなかなか凝集しない。」では、どっちもどっちで、優劣は決めがたいのだろうか。吉川の見方はそうではない。「一般に対する弊害は、或いは中国風の学問の方が、すくないのではあるまいか」という判定を下す。どういうことか。
 仁斎、徂徠、東涯、宣長など、超一流の学者たちが己の学問の成果として入門書を書くのはよい。しかし、それを書くという責務が彼らほどではない学者たち、つまり大半の学者たちにものしかかると、彼らは終点への焦慮に駆り立てられ、主観的で粗雑な議論に陥りがちになると吉川は見ている。つまり、それぞれの学者の学問が早く凝り固まりやすく、何世代もかけて一つの学問を営々と築いていくという息の長い仕事にそれぞれところを得つつ安心して携われない弊が日本の習慣にはあると見ているのである。
 吉川が日本の学問のこの弊を語るのは過去についてのみではない。同じ弊が、現代、つまり敗戦直後の日本においても、学問の生産性が高まらない要因の一つではないかと吉川は懸念しているのである。この問題は、私たちにとっても過去の問題ではない。明日の記事では、敗戦直後の状況と私たちの現在の状況とを比較しつつ、吉川の見解を検討する。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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