内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

社会存在の論理としての「種の論理」の多角的検討(承前続)

2013-09-22 00:13:00 | 哲学

 今朝(21日)いつものプールに7時に行ったがスタッフが揃っていないとのことで定時には開門せず、仕方なしに14区のプールにRERとメトロを乗り継いで移動。ここのプールもときどき利用しているのだが、それぞれ地区によって利用者層に違いがあるのが面白い。ここにも朝の常連さんは10数人いるのだが、高齢者にかぎらず泳ぎが極端に遅い人が多い。はっきり言って下手なのである。フォームが崩れていて、あれでも泳いでいるのかと言いたくなるほどである。その中には、パリの公園の池などでよく見かける、水掻きがないのに鴨の家族のあとについて必死になって首を前後させて(そんなことしたって進まないのになあといつも見ながら笑ってしまう)追いつこうとしている、小さな黒い鳥たちを思い出してしまう(名前はなんというのだろう)。
 プールから帰ってひと息入れてから、昨日ネットで購入したパソコンを店まで直接取りに行く。そうなのである。買ったのである。いまそのパソコンでこの記事を書いている。と言ったって、新品の高性能のを買うわけにはいかないから、一度だけ使っただけのほぼ新品という触れ込みの東芝のSatellite の17インチ画面のノート型を買った。399€也。スペックは大したことないが、私にはこれで十分。ちなみに買って8ヶ月でどうやらハードディスクがクラッシュしたらしいのはソニーのVaioであった(こっちは新品買ったのにね)。これはまだ保証期間中だが、アマゾンで買ったからどこに修理に出せばいいのかもわからない。きっと郵送しろということになるだろうし、時間もかかるに違いない。それでは困るのだ。ただ、もし完全に無償で直してもらえるものならば、今後予備として使えばいいから無駄にはならない。来月問い合わせてみるつもり。
 しかし、いくら仕事のために必要だからとはいえ、この狭いアパートに今合計4台のラップトップ型PCがあるのは異常である。場所はとるし、いくらなんでも4台は必要ない。1台は大学で使っていたものだから、今度大学行く時にまた研究室に置いてくればいいが、2年前に東京のある私立大学に研究用「備品」として買ってもらったHPは、やはりハードディスクが損傷しており、そのせいか徐々にキーボードが異常をきたしてきており、テキストを打つことができない。だたこれまではプリンターに接続して印刷用として専ら使っていた。それにしても、決して乱暴な使い方はしていないし、物理的衝撃を与えたこともなく、ましてやいかがわしいサイトなどを訪問したこともない(ほんとですよ)のに、どうしてわずか2年の間にこう次から次へと故障するのだろう。なにか呪われているのかと思いたくなるほどである。コンピューターに明るくはないので、原因がよくわからないままというのは実に気持ちが悪い。

 閑話休題。「種の論理」の多角的検討の第4回目。第7、8項目。ところで、ある記事を書き始めて1回では終わらない場合、最初に掲載した記事に続く記事は「承前」とすればいいが、その「承前」の承前はなんというのだろうか。以前同じタイトルで3回記事を投稿したときは3回目を「承前2」としたことがあったが、今回は「承前続」としてみた。そうすると明日の記事は「承前続続」としなくてはならなくなりそうであるが、これはやはり行き過ぎというものであろう。幸い明日でこの同タイトルでの連載も終わるから、「最終回」あるいは「完結編」(これはちょっと大げさか)とするつもりです。

 7/ 政治哲学的問題
 「民族に配当せられた「種」を基体とし、「個」の実践の否定的媒介により「類」の地位に高められた国家」を「最も具体的な存在」(家永三郎『田辺元の思想史的研究』56頁)、つまり歴史を現実的に構成する根本的な実在とすることは、有限かつ相対的な現実の国家存在をそれ自体として合理化してしまう危険をつねに孕んでいる。ところが、田辺のいう絶対弁証法からは、国家を特に最も具体的な存在とするような帰結は導かれえない。もし〈種〉が〈個〉の否定的媒介によって〈類〉へと普遍化されるとしても、絶対弁証法はそれら3項がいずれもそれだけでは成立しえないということを基本的なテーゼとするかぎり、〈類〉にだけ優位性を置く根拠はそこからは出てこないはずである。絶対弁証法は、それを構成するすべての項の徹底した相対性と有限性と媒介性・被媒介性の自覚でなくてなんであろうか。
 昨日の記事の最後に引用した田辺の「絶対弁証の哲学の存在論」から以下のよう帰結が論理的に導き出せなかいことは明らかである。「歴史は必ずその主体たる国家から理解せられなければならない。(中略)私にとつては国家が最も具体的なる存在であり、正に存在の原形となるものである。いはゆる基礎存在論は国家的存在論でなければならぬ。(中略)基体即主体としての国家の有する絶対的相対、あるいは無の有化ともいふべき存在性は、単なる表現的存在乃至象徴的存在と根本的に区別せられる応現的存在といふべきものであつて、私はこれが存在の最も具体的なる原型であり、一切の存在は自然のそれに至るまで、此応現存在なる原型の、抽象的形態として理解せられる筈である、と信ずるものである」(「国家的存在の論理」(1939年)、家永前掲書54-55頁)。
 この実在する国家存在の合理化は、たとえ個人による否定的媒介を国家の存立のある段階で認めることはあっても、その国家への最終的従属を必然的に正当化してしまうのではないか。この論理に従うかぎり、国家に対する個人の自律性の根拠は見出し得ないのではないか(田辺がかつての自らの思想の「国家絶対主義の傾向」の誤りに気づき、戦後公刊された著書『種の論理の辯證法』(1947年)の中でその非を率直に認めたことを「種の論理」の欠陥の自認と見るかどうかは、あくまで「種の論理」の形成期の論考を対象とする今回の発表の問題設定の枠組みを超える問題なので、ここでは取り上げない)。
 この問題圏において、国家における個人の自由と平等の関係の問題も問われなくてはならないだろう。国家を絶対化し、その国家への例外なき従属を諸個人間の平等性の根拠とするかぎり、個人の自由は国家によって制限されざるをえないが、その個人の自由の制限が国家の存立を危うくしてしまう。種の論理と絶対弁証法とは両者相俟ってはじめて、まさにこの危機を乗り越えるための理論的装置として機能しうるのではないだろうか。
 8/ 歴史観の問題
 歴史の発展段階を生産関係の移行によって根拠づける唯物史観と、文化に固有な発展の形而上学的契機を認める文化史観とに対して、「種の論理」がもたらす歴史観を位置づけることによって、徹底して媒介性に歴史の展開の根本契機を認める絶対弁証法としての種の論理の積極性を照らし出すことができるのではないだろうか。一方的な根拠づけによる硬直した歴史観でもなく、高次な文化的生産にのみ固有な論理に盾籠もろうとする閉じた歴史観でもない、柔軟な歴史認識の方法の基礎理論としての「種の論理」という問題を立てることができるのではないか。


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