内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

情報は情報であるかぎり、真理ではありえない ―『情報感染症に罹患しないためのメディア原論』より

2020-08-28 07:03:53 | 講義の余白から

 メディア・リテラシーの第二回目の授業は、昨日の記事で示したメディアの定義に従って、メディアを介さない「直接的な」情報は存在し得ないという前提から議論を展開していく。いかなる情報もメディアにおいて、メディアによって発生するのであれば、それらの情報をいっさい排除したとき、つまり、いかなるメディアも介さずに私たちが直接的に確実に知りうることは何であろうか、という問いが出て来る。
 例えば、今、私がこの記事を書いているとき、窓外の天気をこの肉眼で確認することができる。爽やかな風が吹く、とても気持ちのいい夏の終りの晴天である。私は、視界を覆う樹々の緑とその彼方の青空をこの眼で今直接見、風に揺れる樹々のざわめきを聞き、室内を吹き抜ける涼風を肌に感じている。そこに誤りが入り込む余地はまずない。これを仮に知覚による直接知と呼ぶことにしよう。
 もちろん、これは日常生活の中でのごくありふれた経験として言っているのであって、哲学的に徹底した懐疑や知の確実性についてはここでは問題にしない。
 今この場所に他の人がいるとしよう。その人も私と一緒に窓外の天気を眺めている。私たちは同じ状況を同じ場所で共有している。このとき、情報を発信することも受信することもまったく必要がない。つまり、このような条件下では、つまり、知覚が共有されているとき、情報は発生しない。
 そのとき、日本の友人からメールが届いたとしよう。その中に「今、そっちはどんな天気?」と書いてある。私はそれに「今、とっても気持ちのいい天気だよ」と答えたとする。ここではじめて情報が発生する。私の日本の友人には、私が言っていることが本当かどうか確かめる術がない。もちろん、普通、私の側に嘘をつかなければならない理由もなく、友人の側にも私を疑う理由もない。という前提の上でのみ、その情報は「正しいもの」として伝達される。
 情報の伝達は、それを知っているものから知らないものへという非対称的な関係において、情報の受信者側にはその真偽を直接的には確認も確証もできないときに発生する。初期情報についてその真偽を確認・確証できる手段を入手できた時点で、その初期情報は、より確度の高い新情報に取って代わられ、情報としての価値を失う。情報は情報であるかぎり、相対的であり、期間限定的である。いつかは上書きされ、更新されるのが情報の情報たるゆえんだ。
 情報はメディアにおいてのみ発生する。メディアにおいてのみ発生するものは真理ではありえない。ゆえに、情報は情報であるかぎり、真理ではありえない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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