メディア・リテラシーの授業の第三回目のテーマは、この科目の直接的な学習対象である日本のメディアからますます遠ざかる。そのテーマとは、「いっさいの媒介を経ない直接知はありうるか」という問いである。「そんなテツガク的な小難しい話、この授業のテーマと何の関係もないじゃん」と呆れるか、匙を投げる学生もいるであろう。
しかし、私は抽象的な話で彼らの頭脳をいたずらに苦しめるつもりは毛頭ないし、学説やら哲学者や哲学書の名前を列挙することはいっさいしない。ただ、日本のメディアのリテラシーのためには、メディア原論から始めざるを得ず、そのメディア原論は、いかなるメディアも介さない直接的で確実な知はありうるのか、という問いまで遡らざるをえないということを理解してほしいだけである。
さて、今日の本題に入ろう。
昨日の記事では、知覚は何も媒介としない直接知であるという立場を一応担保した。しかし、ほんとうにそうであろうか。
以下、それぞれの論点について、議論の過程は省略し、結論のみ摘記する。
知覚は身体の形態・構造・機能・生理を前提としており、それらと独立に知覚作用は成り立ち得ない。知覚によって私たちが何か経験的に知ることができるとすれば、それは身体を媒介としているのであって、けっして無媒介な直接知ではない。知覚による前言語的な世界了解の次元を認めるとしても、それがすでに知覚主体としての身体を媒介とした関係性における知である。
その知覚経験の記述が言語によって媒介されていることは言うまでもない。私たちは自分の知覚経験を記述するのにいずれかの自然言語を使用せざるを得ないが、その記述は経験そのものではない。知覚経験は、言語による記述を媒介としてしか、それを経験していない者に対して伝達可能にならない。いっさい伝達不可能なものは知ではあり得ない。
知覚に依存しない知についてはどうであろうか。例えば、数学的言語はどうであろう。その場合も、論証には一定の規則に従って運用されるべき記号体系を必要とするから、やはり無媒介な知ということはできない。
すべての自然言語から独立していて、自律的に機能する普遍言語を想像することはできても、それを想像する言語は普遍言語ではない。自然言語のいずれか、あるいはそれとは区別される記号の体系を媒介としてしか、普遍言語の構想を語ることはできない。
ここまで考えてくると、知ることは、つねに何かを媒介として成立していると考えたほうがよさそうなことがわかる。無媒介な直接知がありうるかのように思えるのは、その知の成立を可能にしている媒介が自明性の地平を構成しているか、あるいは自明性の地平の下に隠れてしまい、かつ私たちがそこのことを忘却しているからに過ぎないことにここで気づかざるを得ない。
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