内的自己対話-川の畔のささめごと

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無限相互媒介の記号論理学 ― パース哲学を介して見出される鶴見俊輔と田辺元の交叉点

2014-01-26 01:37:00 | 哲学

 昨日の記事の続き。合田氏の鶴見俊輔についての発表について私が問題にした第二の点は、発表の中では示唆的に示されただけの鶴見と田辺元との接点である。ちょっと考えただけでは、この両者の間に接点を見つけることは難しい。鶴見自身「戦中思想再考」(初出『世界』1983年3月号、鶴見俊輔『思想の落とし穴』岩波書店、1989年収録、『竹内好 ある方法の伝記』岩波現代文庫、2010年再録。引用はこの最後の版による)の中で、「戦争中、私は、小林秀雄、保田與重郎、田辺元、西田幾多郎、和辻哲郎、こういう人たちの著作を読んだんですけれども、しかし、そういう著作は、自分の心を奪うものにはならなかった」(231頁)と述べているから、田辺を同時代思想として読んではいたが、田辺哲学に強い関心を持ったとはとても言えない。合田氏は特に両者に見られるカントの範疇表への関心に両者の接点を求めようとしていた。それに対して、それだけでは両者の哲学に見られる共通問題というところまでは発展させがたいだろうというのが私からの批判であった。しかし、まさに合田氏のテキストが与えてくれた示唆によって、質問を準備する段階で私なりに両者の接点を見いだせるかどうか自ら問うことへと導かれた。
 両者の哲学がそこで交叉しうるであろう概念として、私は〈媒介〉を集会当日の質疑応答の際に提示した。パースの哲学に見出される主要な特徴として鶴見が数えあげる中に、スコラ的実在論と連続主義がある。一言にして言えば、前者は、記号としての事物と事物との間の関係の実在性を認める。後者は、いかなる判断も連続した一連の判断の中の一つだと考える。これらの基本的テーゼは、即自的な実体への固着を拒否し、社会の諸現象を記号の連鎖として読み解こうとする鶴見の後年の思想的傾向全体を支配していると言えるだろう。他方、田辺の絶対媒介の弁証法は、すべての関係項は他の関係項によって媒介されることではじめてその表現の定立を得、それ自体で自存する最終的・絶対的な項を原理的に否定しなければならない(しかし、田辺自身によって戦中に実際展開された種の論理は、この決定的な点において論理的一貫性を欠いていたことは、昨年9月11日からの田辺の種の論理を巡る一連の記事で繰り返し取り上げた)。この両者に見られる〈即自性〉の拒否は、諸現象を構成する諸項・諸関係・諸記号の無限連鎖関係あるいは無限相互媒介の論理学の構想へと収斂させることができるだろうというのが私の提示した解釈であった。このテーマもまた私自身の哲学的構想である「受容可能性の哲学」のパースペクティヴの中で今後検討されなくてはならないであろう。












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