内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

分散ではなく、集中によって ― アウグスティヌスの時間論から九鬼周造の音韻論へ

2014-10-29 19:47:36 | 哲学

 明日の発表の準備は昼前には済んだので、今月末までに仕上げるべきもう一つの仕事である大森荘蔵の仏訳する論文の要旨に取り掛かった。「ことだま論」と「虚想の公認を求めて」は一応完了。あとは「科学の罠」の要旨のみ。今晩中にはなんとかなるだろう。
 国際シンポジウム後は九鬼周造の音韻論についての論文に取り掛かる。別にその論文の準備というわけではなかったのだが、今日の午後、塩川徹也『発見術としての学問』(岩波書店、二〇一〇年)をふと手に取り、最後の論文「ひとは今を生きることができるか」の後注を読んでいたら、アウグスティヌス『告白』第十一巻第二十九章からの引用についての説明があって、本文ではパスカルが愛読したであろうアルノー=ダンディイの仏訳の塩川氏自身による和訳が引用されているのだが、注には参考として原文により忠実な山田晶訳(中公バックス『世界の名著 アウグスティヌス』一九七八年)が引かれている。
 そこで手元にある『世界の名著』第十四巻『アウグスティヌス 告白』(一九六八年)の当該箇所を開いて、その前後も含めて読んでみる。

私は過去のことを忘れ、来たりまた去りゆく未来のことに注意を分散させずに、まのあたり見るものにひたらすら精神を集中し、分散ではなく緊張によって追求し、天上に召してくださる神の賞与をわがものとする日までつづけます。

 この名訳には多数の懇切丁寧な注が付いていて、上記の引用箇所でも「分散させずに...集中し」と「分散ではなく緊張によって」との二箇所に注が付いている。前者については特に詳しい注が付いている。その中で、原文で対比的に使われている distendere と extendere とについて、前者は、「分散した方向に心が向かうこと」であるのに対して、後者は、「精神を一つのことに集中する」という意味に用いられていることを指摘した上で、後者について、「しかし、本来この語にそのような意味はない。それは「外に」ex「むかう」tendere のことであって、「のびる、ひろがる、延長する」の意味である。なぜアウグスティヌスはこの語を、この特殊な意味に用いるか」と山田は自ら問う。
 「二つ理由があると思われる」と山田は言う。同注では、第一の理由のみが説明される。第二の理由は、『告白』の少し先の箇所でもう一度 extendere が用いられている箇所に付けられた注の中で述べられる。

「目前にあるもの」とは、たんに過去と未来とに対立する意味での現在的なものではなくて、この現在にたいしていわば垂直的にかかわる「永遠なもの」をいう。このようなものに extendere するとは、時間的現在「から出て」ex、すなわち超出して、「永遠の現在」に心を「むける」tendere ことを意味するのではないか。

 この箇所を読んで私はハッとした。九鬼周造が一九二八年にポンティニーで行なった二つの講演のうちの一つ「時間の観念と東洋における時間の反復」で問題にしている「垂直的脱自」とまさに重なり合う問題ではないか。
 私がこれから書こうとしている九鬼の音韻論についての論文は、この「垂直的脱自」という経験が現実においてどこで可能なのかという問いに対して、晩年の九鬼は、音韻論を通じて詩的経験の中に答えを見出そうとしたという仮説に立っているのだが、この山田注はその道行を照らす探照灯となってくれることだろう。
 そればかりではない。前掲の塩川論文もまた、〈永遠の現在〉という問題についてのその犀利なパスカル読解によって、多くの示唆を与えてくれることだろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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4 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
時間は意志に属す ()
2017-09-26 08:50:10
九鬼周三のことを勉強していて貴ブログに出会いました。
九鬼の「時間論」で「時間は意志に属す」というというのが理解できません。時間が人間の意識に属しているというのならわかるのですが、九鬼はなぜ意志と考えたのでしょうか。
よろしくお願いします。
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Re:時間は意志に属す (kmomoji1010)
2017-09-27 18:14:49
十分なお答えはできませんが、持続そのものが意志の現実だと考えたのではないでしょうか。
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かっぱえびせん (franoma=あ*)
2017-09-30 16:28:05
「持続そのものが意志の現実」
=楽しいとやめられませんの〜
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われわれが評価するのは意志そのもの ()
2017-10-01 05:58:19
釈然としないので、もう一度読んでみました。
九鬼は日本の武士道の時間観念のことを言っているようです。意志による内的時間のようなものだと思われます。九鬼のこの時間論は、形而上学というより社会学の観点のようです。
九鬼の指摘した日本人の特性は今も維持されており自分自身を苦しめているようにも思いました。
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