内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

〈主体〉再考(3)― ちょっと寄り道、三木清『人生論ノート』について

2018-02-22 17:43:06 | 哲学

 木曜日は、修士一年の演習の日である。二つの演習が連続してあり、計3時間。最初の1時間は、日本語のライティング実習。10名の学生にそれぞれ自分のプロジェクトを書かせている。プロジェクトの内容は、研究計画でもいいし、将来計画でもいいし、起業計画でもいい。自分を未来に向かって投企する内容であればなんでもいい。全員があらかじめ提出したテキストを教室で直していく。こうすることで、当の書き手以外にも役に立つ指摘を全員で共有することができるからである。
 残りの2時間は「近現代思想」である。今年は、三木清の『人生論ノート』を読解テキストとして選んだ。23のエッセイからなるこの小著は、1941年の初版以来、今日まで読み継がれている。新潮文庫版は、2016年現在で、第108刷に達している。昨年4月には、NHKの「100分 de 名著」でも取り上げられた。
 先週から「幸福について」と題されたエッセイを読んでいる。読む速度は遅く、一回の演習で2頁くらいしか進めない。しかし、それは内容的に文章の密度が高く、学生たちに一文一文読ませた後の私の注解に時間がかかるからである。学生たちもテキストの内容に惹きつけられているのがわかる。
 今日は、このエッセイに出てくる構想力という概念について詳しく説明した。この概念は、未完に終わった三木の最後の哲学的著作である『構想力の論理』の根本概念であり、このエッセイを読んだだけではなんのことかよくわからないからである。
 今日もう一ヶ所少し立ち入って注解を加えた箇所は、「主体的」という言葉が三回出てくる段落である。「主体」という語を « Subjekt » の訳語として、マルクスの「フォイエルバッハ・テーゼ」の翻訳(1930年)に用いたのは、他ならぬ三木であり、これが日本で出版された哲学書における「主体」の最初の用例とされる(小林敏明『〈主体〉のゆくえ』参照)。その後、「主体」という語は、京都学派共通の鍵語として濫用されるようになったばかりでなく、その圏域をはるかに超えて、一つの流行語になっていく。
 それから八年後に書かれたこのエッセイの中では、しかし、三木が苦々しい思いでこの流行を見ていたことがわかる。

 幸福の問題が倫理の問題から抹殺されるに従って多くの倫理的空語を生じた。例えば、倫理的ということと主体的ということとが一緒に語られるのは正しい。けれども主体的ということも今日では幸福の要求から抽象されることによって一つの倫理的空語となっている。そこでまた現代の倫理学から抹殺されようとしているのは動機論であり、主体的という語の流行と共に倫理学はかえって客観論に陥るに至った。(新潮文庫版、17頁)

 今日でも、哲学的関心のあるなしにかかわらず、日本人は「主体」という語がかなりお好きなようである。その嗜好の背後に隠された日本人の精神病理についは2017年12月18日の記事で話題にしたことがあるので、参照いただければ幸いである。













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