内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

世界に感覚・方向・意味を到来させる現在 ― パスカルと西田(4)

2015-09-30 05:53:18 | 哲学

 パスカルにおける無限と西田における無限とがそれぞれまったく異なった世界像と自然観に基づいていることをよく示している箇所を両者から一節ずつ見てみよう。

Pourquoi ma connaissance est-elle bornée, ma taille, ma durée à cent ans plutôt qu’à mille ? Quelle raison a eu la nature de me la donner telle et de choisir ce milieu plutôt qu’un autre dans l’infinité, desquels il n’y a pas plus de raison de choisir l’un que l’autre, rien ne tentant plus que l’autre ?(Pensées, fragment 194 (Lafuma) ; 208 (Brunschvicg) )

どうして私の知識、私の背丈は限られているのか。どうして私の寿命は千年ではなくて百年なのか。自然にはいかなる理由があって、私の寿命をそう定め、無限の中で、他でもなくこの居場所を選んだのか。他の居場所より気を引くものは何もないのだから、あれよりもこれを選ぶ理由はないではないか。(塩川徹也訳)

 未来と過去にどこまでも広がる無限の中で、私は、どうしてあそこではなくここに、どうしてこのような大きさの身体で、どうしてある長さの寿命を生き、どうして過去のあの時でもなく未来の来るべき時もなく、今この時を生きているのか。私はその理由をけっして知り得ない。パスカルにおける人間は、そう煩悶する。無限の只中で、これらの問いの答えを探し求めて、それを得られず、彷徨し続ける。

我々は無限の現在から出て無限の現在に還り行くと考へることができる。そこに真に死することによつて生きるといふ意味があるのである。真に過去未来を包むものは単なる無限大の極限球といふ如きものではなくして、パスカルの所謂周辺なくして到る処が中心となるものでなければならない。合目的的作用に於て無限なる未来の底から我々を限定すると考へられる目的は、人格的行為に於ては現在が現在自身を限定するといふ意味に於て、無限なる現在の果から我々を限定すると考へられねばならない。(「私と世界」『西田幾多郎全集』第六巻、2003年、108頁)

 1933年、『哲学の根本問題』刊行に際して執筆されたこの論文の中で、パスカルの「無限大の球」というメタファーを借用しながら、西田がパスカルとはまったく異なった実存的時間論を展開していることがよくわかる箇所である。
 無限は私たちを一方的に包むものではなく、私たちの生きる現在が現在として自己限定することこそが無限を無限たらしめている。いたるところにある無数の中心とは私たち一人一人のことであり、その無数の現在がそれぞれに現在として自己限定するところにはじめて個々に相異なった人格が生まれ、人格としての行為が成立する。
 西田は、「どうしてここであって、他所ではないのか」とは問わない。ここが〈ここ〉であるかぎりにおいて他所は〈他所〉であり得るのであるから、その意味で、〈ここ〉は〈他所〉を包み込んでいる、無数の他所をその内に含んでいる。
 言い換えれば、私たち各自によって生きられるそれぞれの現在は、それが世界において世界が世界自身を映す配景的一中心であることによって、感覚・方向・意味、つまり三重の意味での « sens » を世界に到来させるのである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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