内的自己対話-川の畔のささめごと

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寛容再論(五)寛容と寛大の共通点と差異、そしてこの両語と tolérance との差異

2023-04-28 10:12:21 | 哲学

 寛容(tolérance)の精神についての考察に戻る前に、もう一、二か所、寄り道したい。
 今日は、先日もちょっと触れたことがある「寛容」と「寛大」の共通点と差異について。あくまで日本語としての両語の違いについてのしかも私の個人的な語感と使用法に基づいた話だから一般化はできないところもあるだろう。
 「寛大」を国語辞典や漢和辞典で調べると、用例として「寛大な措置」が挙げられていることが多い。「寛容」の簡単な用例は見つけられなかったが、例えば「寛容な態度」という使い方はあるだろう。「寛」は「ひろい」とか「ゆるやか」の意で、「寛大」というのは、『新漢語林』(第二版、2011年)によれば、「心が広くゆったりしていること。心を大きくもち、人に対してゆるやかにすること」で、用例は『史記』の「高祖本紀」から取られている。「寛容」の「容」には、「許す」とか「受け入れる」という意味がある。つまり、「寛大」にはない動作性が含まれている。
 いずれの場合も、自分に苦痛を与えるもの、受け入れがたいものの存在を一定の条件と期限つきで容認するという tolérance の原義に含まれている「我慢する、忍耐する」という含意はない。その過ちや失敗を咎め立てすることなしに他者を受け入れる心の広さ・大きさが「寛大」であり、そのように他者を許し受け入れることが「寛容」なのであるから、そのようにする人はそもそも我慢も忍耐もしていない。「寛大」も「寛容」もその人のいわば本来的な在り方としてありうる。フランス語では générosité がこれに近い。
 それに対して、tolérance は苦痛を、もともとは受け入れがたいものの存在を前提とする。このことはこの語の歴史的変遷を辿るとよくわかる。身体的苦痛を我慢するという意味は措く。ヨーロッパ宗教史においてカトリックが圧倒的な権力を握っていた間は異端に対する tolérance はあり得なかった。異端者たちに対しては、矯正するか、改心させるか、破門するか、排除するか、殲滅するかのいずれかである。唯一の正しい教えに背いているのだから、彼らは間違っているのであり、そのまま認めることも許すこともあり得ないというのが正統側の言い分である。
 ほんとうに本物の正統しかなければ、それは正統でさえない。端的に真理である。正統がなく、異端しかないということもありえない。その場合、異端は異端ではないからである。そこにあるのは多様性である。本来は真理ではないこと、あるいは真理かどうかわからないことを絶対化し、自分たちのみをその所有者だとし、その他はすべて間違っているとする集団が権力を握ったときにはじめて、正統と異端という対立が発生する。
 もともと tolérance はそれ自体として自律した態度としてあったのではなく、正統派の不寛容(intolérance)がその歴史的前提としてあってはじめて、それに反対する立場として登場してきたに過ぎない。したがって、寛容と不寛容の境界線は、歴史的・社会的・政治的・文化的諸条件に応じて可変的であり、つねに相対的である(この点に関して、Dictionnaire des faits religieux, PUF, 2e édition, 2019 の « Intolérance / tolérance » の項にとても示唆的な考察が示されている)。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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