内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

「永遠回帰」から古典論へ

2016-01-25 18:35:11 | 読游摘録

 昨日紹介した福田拓也氏の小林秀雄論の中に、ジル・ドゥルーズが『ニーチェ』の中でニーチェの「永遠回帰」の新しさについて説明している箇所からの引用があり(160頁)、それが小林秀雄の古典論と結びつけられているところが私にとって大変示唆的であった。ただ、引用されている邦訳には同意できないところもあるので、まずドゥルーズの原文の当該箇所を省略箇所も含めて引いてから、一部改変した訳を提示する。

Revenir est précisément l’être du devenir, l’un du multiple, la nécessité du hasard. Aussi faut-il éviter de faire de l’éternel Retour un retour du Même. Ce serait méconnaître la forme de la transmutation, et le changement dans le rapport fondamental. Car le Même ne préexiste pas au divers […]. Ce n’est pas le Même qui revient, puisque le revenir est la forme originale du Même, qui se dit seulement du divers, du multiple, du devenir. Le Même ne revient pas, c’est le revenir seulement qui est le Même de ce qui devient (Gilles Deleuze, Nietzsche, PUF, 1965, p. 36).

立ち戻ることはまさに生成の在り方であり、多なるものの一性であり、偶然の必然性である。それゆえ、永遠回帰を〈同一〉への回帰とすることを避けなくてはならない。そうしてしまうと、変換の形、そして根本的関係における変化を見損なうことになるだろう。というのも、〈同一〉は多様なるものに先立って存在しているわけではないからである[…]。〈同一〉が立ち戻ってくるのではない。立ち戻ることが〈同一〉の始原の形であり、〈同一〉は、多様なるもの、多なるもの、生成するものについてのみ言われうるからである。〈同一〉は立ち戻らない、ただ立ち戻ることのみが生成するものの〈同一〉なのである。

 ドゥルーズによれば、何か永遠に〈同一なるもの〉がまずあって、そこへと回帰することがニーチェのいう「永遠回帰」なのではない。無限の生成過程においてその都度異なり多様な仕方で反復される〈立ち戻ること〉そのことが〈同一〉であることそのことなのである。
 ドゥルーズによってこのように解釈されたニーチェの「永遠回帰」を古典論に適用すれば、この〈立ち戻ること〉の反復が過去の作品を〈古典〉たらしめるということになる。過去の或る時に書かれた作品が事実同一なるものとしてまずあって、それゆえにそこへと私たちがいつでも立ち返ることができるから、その作品が〈古典〉であるのではない。
 その都度企図される〈立ち戻ること〉そのことがある過去の作品を〈同一なるもの〉として彼方に「立てる」。この〈立ち戻ること〉が企てられるかぎりにおいて、〈古典〉は、「二度と再び還らぬ」作品として永遠に現前する。この意味で、〈古典〉は、私たちの〈立ち戻ること〉の中の「永遠の今」においてしか在りえない。




















































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