内的自己対話-川の畔のささめごと

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ロマン・ロランの「大洋感覚」への誘惑とそれに対するフロイトの懐疑の間で引き裂かれ、不安に打ち震えるだけの小さな自分

2024-06-14 11:11:14 | 読游摘録

 ピエール・アドは、La philosophie comme manière de vivre, Albin Michel, 2001 ; Le Livre de Poche, « biblio essais », 2004(『生き方としての哲学』法政大学出版局、小黒和子訳、2021年)のなかで、ロマン・ロランのいう 「大洋感覚」(le sentiment océanique)を « l’impression d’être une vague dans un océan sans limites, d’être une partie d’une réalité mystérieuse et infinie » (「限りない大洋の波のひとつであり、神秘的で無限な現実の一部をなしているという印象」)と説明し、ロランの「大洋感覚」の詳細な考察にその一節を割いている Michel Hulin の La mystique sauvage. Aux antipodes de l’esprit, PUF, 1993 ; collection « Quadrige », 2008 から自らの説明を補強するために二箇所引用している。アドが省略している部分も復元して当該箇所を引用する。

Ce qui domine alors, c’est l’intensité du sentiment d’être présent ici et maintenant, au milieu d’un monde lui-même intensément existant, auréolé d’un éclat particulier, saturé de valeurs, prégnant de toutes sortes de qualités éminentes. Bien plus qu’une mythique confusion entre le Moi et le non-Moi, c’est le sentiment d’une co-appartenance essentielle entre moi-même et l’univers ambiant qui s’y déploie. (op. cit., « Quadrige », p. 67-68)

そのとき支配的なのは、それ自体が強烈に存在し、特別な輝きに包まれ、価値が飽和し、あらゆる種類の卓越した特質を含みもった世界のただ中に、今ここに存在しているという感覚の強さである。自我と非自我の間の神話的な混沌などではなく、そこに展開されるのは、自分と周囲の宇宙との間の本質的な共同帰属の感覚である。(私訳)

 ピエール・アドが称賛してやまないこの本の中で、いかなる宗教にも精神的伝統にも属さない「野生の」神秘経験の実例をミッシェル・ユランはふんだんに引用し、それらの間に見られる共通性から、文明の相違を超えた神秘経験の普遍性を実証しようとしている。ロランの「大洋感覚」はその一つの実例として詳述されている。
 本書の考察の起点は、フロイトとロランの往復書簡のなかに明らかに見て取れるこの感覚についての両者の態度の違いにある。フロイトはこの感覚を前にしての躊躇いをロランに隠さない。フロイトは、ロランのいう共同帰属感覚は、明らかにすべき諸限界の区別が曖昧となり、それらが相互的に混信した結果なのではないかという考えにどうしても傾く。その傾きがよく現れているのが『文明への不満』(Das Unbehagen in der Kultur, 1930)の冒頭である。

わたし個人としては、こうした感情が原初的な性格のものであるとは確信できない。ただし他者にこうした感情が実際に存在することも否定できない。問題なのは、この感情をわたしたちが正しく解釈しているかどうか、これがすべての宗教的な欲求の「源泉にして起源」であることをみとめることができるかどうかである。(光文社古典新訳文庫、中山元訳、二〇一三年)

 ロマン・ロランが語りピエール・アドが共感する「大洋感覚」への誘惑は私も強く感じるが、フロイトの懐疑にも耳を傾けたい。そのように引き裂かれて不安に打ち震えているだけの小さな自分以外のものではありえそうにない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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