内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

「個性的でない個人」― 日本の近代化を千年遅らせた要因

2016-01-26 20:19:06 | 講義の余白から

 今日は、日がな一日、明日の中古文学史の講義の準備をしていた(プールはいつものように午前中に行きましたよ)。外は春のような陽気で、写真を撮りに出かけたいという気持ちに腰が椅子から浮きかけもしたのだが、講義の準備のための文献をあれこれ読んでいたら、それが面白くなってしまい、気がつけば日暮れであった。
 講義の準備は入念にするよう心掛けている。目安として、実際に二時間の講義の時間内に話せることの二三倍の内容を「仕込む」。講義中に見るノートは見開き二頁に収める。それ以外に用意するのは、学生たちにパワーポイントで見せる資料である。
 明日の講義は、『古今和歌集』がテーマ。昨年の講義では、全般的説明の後に「仮名序」の冒頭を原文で読ませてから、いくつか古今集歌を紹介しただけに留めたのだが、今年は昨年よりも一回分授業数が多いので、その分を活かして、もう少し立ち入って説明することにした。
 この講義は、学生たちに日本語の文章を読ませるという目的もあるから、講義の内容に即していてかつできるだけ良質な現代文を講義に織り込む必要がある。学部二年生対象の講義であるから、あまり高度な内容や専門性の高いテキストを選ぶことはできない。とはいえ、いい加減な解説文でも困る。
 これらの基準を満たしているテキストの一つとして、小西甚一の名著『日本文学史』(講談社学術文庫、1993年)がある。初版は1958年。文庫版で本文は二百頁ほどの小著である。しかし、日本文学史について古代から近代まで一貫した視点からその流れを大づかみに提示し、さらには比較文学的観点から世界文学史の中に日本文学を位置づける試みとして、同書を凌駕する日本文学史はいまだに日本語で書かれていないのではないだろうか。
 明日の講義では取り上げないけれど、文学史的記述の合間にさりげなく挿入されている次のような精神史的考察は、深い学識に裏打ちされた洞察として、日本思想史の問題の一つとして真剣に検討されるに値すると私は思う。

 古今集時代の歌人たちが個性を喪失したというのは、わたくしどもから眺めての話であって、かれらとしては、表現の新しみを求めるため、それぞれ工夫をこらしていたのである。ただし、その新しみは、たいへん微量でよかった。なぜならば、かれらの感受性は、ごく微量の新しみをあざやかに感じうるだけの細かさにまで洗煉されていたから、必要以上の刺激は、かえって「こちたし」と受け取られるにすぎなかったのである。したがって、和歌的世界から「個人」が消失したわけではなく、むしろ、他との微細な表現的差異をたえず意識することによって、いっそう「個人」のなかへ入りこんでいったのである。しかし、個性的でない個人という変則的な在りかたが古今集時代に確立してしまい、真の個人が自覚されなかったことは、近代の成立を十世紀ちかくもおくれさせる結果となっている(51頁)。

 引用の最後の文に出てくる「個性的でない個人」という規定は、十世紀初頭前後の貴族社会の和歌的世界における「個人」について語られていながら、現代日本における「個人」の在りかたを考える上でも一つの示唆を与えてくれる。



















































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