内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

メディア的存在としての人間 ―『情報感染症に罹患しないためのメディア原論』より

2020-08-30 15:24:13 | 講義の余白から

 メディア・リテラシーの授業の四回目は、序説としての哲学的講義の最終回である。人間存在の本来的なメディア性がそこでのテーマである。そこから、なぜ現代社会においてメディア・リテラシーがとりわけ重要なのかという問いに対する答えを結論として引き出す。
 メディアという言葉をその原義に沿ってもっとも広義に取れば、「ある事象がそこで発生する場所」ということであり、「情報伝達の媒体」という今日一般的に通用している狭義のメディアも、この広義の中に位置づけて考えてみることで、その機能をより批判的に考察することができるようになる。
 広義のメディアなしに私たちはほとんど何も知ることができない。ある事象が発生する何らかの〈場所〉であるメディアを介してしか、私たちは何かを知ることができない。私たちの知はつねに〈場所〉に媒介されているのであり、無媒介な知はそもそもありえない。そして、その〈場所〉が安定化し、自明化すると、私たちはその〈場所〉を忘れてしまいがちだ。
 普通に日常生活を送るだけなら、それで何の不自由もない。いや、いちいち〈場所〉を疑っていたら、円滑な情報の授受に支障を来すから、〈場所〉を忘れていたほうがむしろ好都合なくらいだ。
 広義のメディアの意味において、私たち人間は「メディア的存在」であると定義できる。しかし、それは、人間はメディアに依存しなければ何も知り得ないという消極的な意味においてだけではない。私たちは与えられたメディアを利用することもでき、さらには新しいメディアを創出することもでき、それらメディアを使って情報を発信することもできる。この二重の意味において私たちは、メディア的存在なのだ。
 私たちはいつも何かに媒介されているからこそ、ある〈場所〉においてある媒介的存在だからこそ、何かを知ることができる。情報を発信、受信、媒介、転送することができる。広義のメディアなしに、私たちは何かを知ることも、他者とコミュニケーションすることもできない。
 だからこそ、今日の社会で自明化している種々のメディアを、そのそれぞれの特性・信頼性に応じて読み分けることができなければ、私たちは自分自身を知ることさえできない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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