内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

離脱論(六)解釈の葛藤の超克の可能性をどこ見るか

2022-01-30 10:09:39 | 哲学

 昨日の記事で取り上げた『マイスター・エックハルト』の第3章の冒頭でヴェルテは次のように「離脱」を規定している。

 「離脱」は、エックハルトの意味では、自己目的ではない。「離脱」は、一本の道、あるいは一つの門のようなものである。「離脱」は、人をある目的へと導く道であり、門である。その目的は、神が今、ここに居たまうことである。したがって、我々は、「離脱」が我々人間を、神が今、ここに居たまうことへと開く、ということをどのように理解したらよいか、ということを問わなければならない。エックハルトの意味では、本来それ以上何も必要でないように見える。それ以上はいかなる媒介についても語られておらず、ただ、「離脱」について語られているだけなのだ。「離脱」はエックハルトの意味では、直接、そして、それ以上の媒介なしに人を神の御顔の前へと導くのである。(43頁)

 引用の最後の分の中の「神の御顔の前」という表現が気になる。ヴェルテはそれをまず神を純粋な真理として考えることして理解することを同章で試みている。この真理は、しかし、ある真なる命題のことではない。すべての真を可能にしている真理である。したがって、それはそれ自体としては言表できない。「御顔の前」という以上、それに対する人間がいることになる。しかし、その御顔が何らかの対象として見えているとすれば、それは実は御顔ではない。
 離脱の徹底化を上田閑照は『マイスター・エックハルト』(『上田閑照集』第七巻)で次のように説明している。

離脱において、無になって神を受容し(無になった魂に神が神の子を生みこむ)、そこに停まらずに離脱の徹底として、受容した神を捨てる(got lâzen)ことによって無に徹する(これは人間に向いた神を突破して神自身の内奥―神性の無―に徹すること)。神の子であるという仕方を捨てて、神でもない被造物でもない無において「我あり」の自由が開かれる。神の子(エックハルトの場合は、即ち子なる神)として神の生命によって生かされて生きるところから、神の生命にも大死し、神なくして生きる(âne got leben)ところへと徹する。その際「神なくして」に、人間が人間の方から「神」、「神」と言う神ではなく、神における神、即ち「無」なる神が現前する。(252‐253頁)

 上田は、この「無」なる神の現前を、「神の子の誕生」を「神性の無への突破」へと離脱が「せり上げてゆく」こととして捉え、前者から後者への「質的な飛躍」を見ているが、ここはエックハルトの専門家たちの間で大きく解釈が分かれるところである。
 上田のような立場を取れば、ヴェルテやハースが実際試みたように、エックハルトの思想を禅仏教に接近させる途が開かれる。しかし、「魂における神の子の誕生」こそエックハルトの最も根源的な思想であると主張する研究者たちは、そのような比較宗教的立場に真っ向から対立している。
 私見では、思想史的かつ文献学的にアプローチを重視すれば、上田のような解釈は支持されえない。特に、「魂における神の子の誕生」を説く説教101から104がエックハルト自身によって書かれた真正なテキストであることが証明された今日、エックハルトをあくまでキリスト教思想史の中で理解しようとすれば、上田の解釈が受け入れがたいのは当然である。
 しかし、昨日の記事で見たように、ヴェルテがいうところの「思索に向かって思索する試み」を今日私たち自身が企てるのならば、話はおのずと異なってくる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


最新の画像もっと見る

コメントを投稿