内的自己対話-川の畔のささめごと

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ハイデガーの超克(Dépassement de Heidegger)― パリ・ナンテール大学での今冬のシンポジウムのテーマ

2023-06-29 23:59:59 | 哲学

 パリ・ナンテール大学で2018年から日本哲学に関するシンポジウムが開催されるようになり、昨年2022年まで、コロナ禍で延期になった2020年を除いて、四回開催されている。そのすべてに発表者として参加してきた。2018年は「田辺元の種の論理」、2019年は「西谷啓治の空の哲学」、2021年は「主観・主体・主語」、2022年は「自然の創案」(シモンドンと三木清の技術の哲学)がそれぞれ発表テーマだった。
 五回目となる今回のシンポジウム(11月30日・12月1日)のテーマは、今日の記事のタイトルのとおりなのだが、その狙いは、ハイデガーの『存在と時間』を日仏の哲学者たちがどのように読み、批判し、乗り越えようと試みたかについて多角的に検討することにある。シンポジウムの提題には、フランスの哲学者としては、レヴィナスの名前しか挙げられていないが、日本側は、西田、田辺、九鬼、和辻が挙げられている。
 主催者がこの五月の上旬に私に参加の意思を問うてきたときには、和辻について話してくれないかという条件つきだった。それでも引き受けるつもりだったが、返事には、私よりも適任な人がいれば、和辻はその人に譲って、自分としては三木清について話したいと希望を述べた。主催者からはすぐに了承の返事が来た。その返信で、和辻についての適任者を一人推薦しておいた。
 三木の名前を挙げたとき、私の念頭にあったのは『パスカルにおける人間の研究』であった。『近代日本思想選 三木清』(森一郎編、ちくま学芸文庫、2021年)の解説で編者は次のように同書を評価している。

 若きハイデッガーは、アウグスティヌスやキルケゴールと並んでパスカルを愛読し、その生の哲学的なテーマ ―「倦怠」「気晴らし」「不安」「死」など ― をみずからの思索の養分とした。しかし、『存在と時間』に片鱗は窺えるものの、ハイデッガー自身にはまとまったパスカル論は見出せない。当人に代わって、日本人の留学生が日本語でその方面の仕事を仕上げてくれた格好になる。これは驚くべきことではないだろうか。
 三木がハイデッガーから学んだのは『存在と時間』公刊以前である。著作からではなく講義や演習、加えて個人指導から貪欲に摂取した形跡が認められる。たとえば、人間とは何かという問い、つまり「アントロポロギー」に対するこだわりが、『パスカルにおける人間の研究』の全編に横溢している。ところが『存在と時間』では、「人間」という言葉遣いは避けられ、それに代わって、存在とは何かという問いを問う者一人一人が、「現存在」と呼びかけられる。そこで『存在と時間』の忠実な読者は、「人間」という語をみだりに使うこと、ましてや「人間学」という探究テーマを掲げることは、「ハイデッガーの思索にふさわしくない」と決めつけたがる。この基準から外れている三木は、「ハイデッガーを学びそこなった」とする批評さえ出回っている。
 そうではないのだ。ハイデッガー教条主義者と違って、ハイデッガー自身の思考は、ずっと柔軟であった。とりわけ、主著刊行以前の気鋭の哲学者は、「人間」や「生」といった事象を公然と探究テーマに据えていた。まただからこそ、主著において、「世人」「頽落」「良心」といった人間性の襞に分け入る問題設定がありえたのである。その鑑識眼のたしかさは、まさしく「モラリスト」的人間洞察に比肩されてよい。「現実の生活経験」を哲学的実存にまで高めようとした若きハイデッガーの試みは、その近くで学んだ日本人留学生がパリで書き、日本でまとめた卒業制作が示しているように、モンテーニュ、ラ・ブリュイエール、なかんずくパスカルの人間論と親和性を示している。

 この所見を一つの手がかりとして、三木のハイデッガー理解とその哲学的方法の適用としてのパスカル論の検討が発表のテーマになるだろう。
 期せずして、パスカル生誕四百年の年にパスカルについて話すことになる。昨年から今年にかけてのフランスでのパスカル関係の出版物の多さには目を見張るものがある。パスカル研究の第一人者であるヴァンサン・カロー氏も Pascal : de la certitude(PUF)を今年三月に出版された。その他いくつかの最新のパスカル研究も参照しつつ、じっくり時間をかけて発表の準備をするつもりである。


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