自然の中の形の生成にも技術的なもの・制作的なものを認める拡張された意味での技術ではなく、人間によって作成された機械的道具による技術という限定された意味での技術については、次の三つの契機を区別することができると三木は言う(『全集』第八巻二四一-二四二頁)。まず、自然法則の認識、次に、人間による目的の設定。そして、両者の総合としての物の実際の変化である。技術はかくして物の形を生産する。
この技術的な形は、理論的なものと実践的なものとの統一、一般的なものと個別的なものとの統一を表すという意味において、弁証法的なものであると三木は規定する。
この弁証法という言葉は、当時の京都学派に限ったことではないが、ヘーゲルやマルクスから離れてそれを多かれ少なかれ自己流に使う者によって、その意味にかなり幅があり、それらの間に通底的な本義を認めることは極めて困難である。仮に共通する意味をそれらから取り出すことができたとしても、それはあまりにも漠然としていて、概念としての生産性に乏しいことだろう。したがって、それぞれの著作家がどのような意味で弁証法という言葉を使用しているのか知るためは、その使用例に基づいてそれぞれに固有の定義を引き出す必要がある。
三木に関しては、『構想力の論理』第三章「技術」の中で技術の定義に即して使用されている場合、弁証法とは、現実の中でのロゴスとパトスとの創造的総合の論理のことである。
もし自然法則の認識(ロゴス)と人間によって設定された目的(パトス)との総合の仕方が必然的に一義的に決定され得るとすれば、その総合は、発見されるものではあっても、発明されるものではない。しかし、ロゴスとパトスとの現実における総合の仕方は多様であり、一度総合が実現されても、その総合の形は別の新しい総合の形によって乗り越えられていく。このように現実のその都度の総合が発明であることが弁証法的ということなのである。
ロゴスとパトスとの総合を新しい形において実現すること、それが技術である。したがって、技術は、上に規定した意味で、本質的に弁証法的である。現実の本質的な弁証法に他ならない創造的総合の論理は、技術が自らを現実に展開していくことそのことによって実現されていく。つまり、技術によって形が生み出されるということは、既に確立されている構想力の論理に従って技術が実践されているということではなくて、生み出される形そのものにおいて構想力の論理が現実そのものとして展開されているということなのである。
最新の画像[もっと見る]
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます