内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

距離のパトスから回帰のパトスへ、戦争の技術から和解の技術へ

2016-07-25 00:00:01 | 講義の余白から

 自然との直接的・無媒介的合一が失われたところに人間存在が成立するということは、その人間存在に対して自然が環境として距離あるもの・超越的なものとして現れるということを意味している。それは同時に、自然に対して人間が距離あるもの・超越的なものとして対峙、対決、そして敵対することを意味してもいる。
 自然からの乖離という人間的条件から、環境として対象化された自然を客観的に認識するロゴスと対象化された自然から独立してそれに対して距離を取ろうとするパトスとが生れる。三木はこのパトスをニーチェが『道徳の系譜学』で打ち出した「距離のパトス」に比定しているが、三木の用法はニーチェ本来の用法とは大きく異る。この距離のパトスが、主体として環境から独立した人間とそれに対する環境との間の戦いの原理だと三木は考える(『全集』第八巻二四九頁)。この距離のパトスと対象を客観化するロゴスとの現実的統一が「戦術」としての技術である。
 しかしながら、たとえ主体として環境から超越した人間が環境に対して「戦闘態勢」に入ることから技術が生まれたのだとしても、技術の戦闘的側面のみを一面的に強調することは正しくない、そう三木は考える(二五二頁)。なぜなら、人間は環境から離れては生きていくことができないからである。自然からの疎外を経験した人間は、遅かれ早かれ、自然との失われた結びつきを再び求めるに至る。しかし、自然からの疎外を一度経験した人間は、対峙する環境と直接的・無媒介的に再び結合することはもはやできない。自然への即自的な回帰はもはや不可能である。
 ところが、まさにこの主体としての人間とそれに対峙する環境との直接的・無媒介的結合の不可能性から、自然との失われた合一を回復しようとするパトスが自然から乖離した人間に生まれてくる。三木はこの結合へのパトスに特に名前を与えてはいないが、私たちはこれを「回帰のパトス」と呼ぶことにしよう。
 距離のパトスは人間を自然の支配へと向かわせる。しかし、自然の支配は自然との恊働なしには成り立たないという自覚が自然への回帰のパトスをもたらす。この自覚が、自然への回帰のパトスとともに、自然と人間との協働的ロゴス化へと人間を向かわせる。
 この回帰的パトスと協働的ロゴスとの弁証法的統一を媒介するものもまた技術であり、この技術は、人間を自然に新たな形で適応させる「和解の方法」に他ならない(二五三頁)。この和解の方法としての技術の探究とその実践との原動力、それが優れた意味での構想力、つまり創造的構想力に他ならない。



















































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