内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

発明の論理としての構想力

2016-07-23 00:05:32 | 講義の余白から

 来週の集中講義の準備の一環として、三木清の『構想力の論理』第三章「技術」からの摘録と注解を続ける。
 今日取り上げるのは、「技術の本質は発明にある」というテーゼについての三木の考察である。

発見されたものは新しいと云はれるにしても、元來既にそこにあつたものでなければならなぬ、それはただ覆はれてゐて發見される以前には我々に見えなかつたのみである。これに反し發明といふのは新しいもの、嘗て存在しなかつたものを作り出すことを意味してゐる。二つの場合ともに新しさが語られるにしても、發明は物を存在せしめるに對して發見は物を認識せしめるといふ區別がある。卽ち發明は創造であり、発見は顯示である。(『全集』第八巻二三八頁)

 発明は発見と区別される。発見は認識に関わり、発明は生産に関わる。もちろん、実際には、両者をこのように判明には区別できない場合も多々あることは三木自身認めている。発見があってはじめて可能になる発明があり、発明が発見をもたらす場合もある。そのような場合、両者は現実的に不可分である。しかし、両者を論理的に判明に区別することで、発明に固有な論理とはどのような論理か、という問いを立てることができるようになる。

發明の論理を明らかにするためには、これをその過程の運動そのものにおいて摑まなければならぬ。言ひ換へると、論議的思惟 pensée-discours が問題でなくて行動的思惟 pensée-action が問題なのである。或る批評的思惟 pensée critique が問題でなくて創造的思惟 pensée créatrice が問題なのである。(同巻二四〇頁)

 発明家はどのように考えるのか。

彼は行動人の如く思索する者である。彼は行動人の如くでありながら彼の態度はどこまでも科學的である。(同頁)

 このように発明家において思索と行動とを結び付けているのが構想力である。構想力の論理は、創造的現実に対して追思考的・事後的に基準を提供し、現実の理解を拘束するだけの統制的規則の体系ではない。

構想力はパトスとロゴスとを媒介するものとして發明の根源に立つてゐる。そして構想力は形を作り出すものとして發明の終極に立つてゐる。(同巻二四一頁)












































































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