内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

戦争末期、最愛の長女を失うという深い悲しみの中で書かれた最後の論文「場所的論理と宗教的世界観」

2020-04-16 23:59:59 | 哲学

 西田幾多郎の最後の完成論文「場所的論理と宗教的世界観」を読み直している。これで何度目かもう覚えていない。どのような状況の中で書かれたかを示す記述を西田の日記と書簡から拾ってみた。
 この論文が起稿されたのは昭和二十年二月四日日曜日であることが日記からわかる。一応書き終えたのは四月十四日土曜日であることも日記に記されている。しかし、四月十三日付の島谷俊三宛書簡には「今丁度私の宗教論「場所的論理と宗教的世界観」を書き終わつた所です」とある。いずれにしてもこれは一先ず書き終えたということであり、同月二十日の同じ宛先の書簡には「宗教論の方一通り終りましたがどうも再考せねばならぬ所多く尚暫くかかります」と認められている。翌日付の澤瀉久敬宛書簡には「宗教論の方は[…]今一通り終りましたが 尚よく再考 訂正いたしますので來月半頃にならねばすみませぬ」と書き記している。五月四日付の高坂正顕宛書簡に「もう出来上がりました」、その二日後の高山岩男宛書簡にも同様な文言がみられるので、五月の初めには完成原稿が出来ていたとわかる。
 この論文を書きはじめて十日後の二月十四日に長女彌生を突然失っている。享年四十九歳。二日後の三女静子宛の葉書には「彌生一昨夜(十四日夜)急死にて死去 本當に驚いた 膽嚢炎とかいふ病にて非常に苦んで死んださうだ その前日(十三日)まで何ともなかつたらしい 近來は誠に親切にあたたかく孝行をつくしてくれたのに かわいさうなことをした 何とも云ひやうのないさびしさを感じて居る 先月十五日に來て梅と二人で宿し元氣で歸つたのに」と深い悲しみと喪失感を綴っている。その二日後の十八日付島谷俊三宛の葉書にも「彌生が突然死んで實に驚きました 嘸御世話にもなつたことでせう 彼は近來特に親切に孝行を盡した 私には何としても忘れ難いなつかしい娘であつたので何とも云ひ樣のない淋しさと深い悲哀に沈んでゐます」と繰り返しその深い悲哀を嘆じている。
 一応書き上げた四月十四日の日記には「昨夜又B29百七十機來襲、新宿から上野邊まで電車不通といふ。王子板橋等も。其他被害の程不明。宮城、大宮御所、火災。明治神宮燒失」とある。その前後にも空襲についての記述が散見される。三月十日の東京大空襲の二日後には「一昨夜のB29百三十機の空襲 東京大火災、聞けば聞く程悲惨」と記している。
 同月七日には「もうだんだん野菜もなくなる 野草にても食ふ外ない」と過酷な食糧事情を記している。そのちょうど三ヶ月後の六月七日午前四時、鎌倉姥ヶ谷の自宅で西田は尿毒症で急逝する。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


最新の画像もっと見る

コメントを投稿