内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

美と崇高の表現としての詩的言語 ― veritas aesthetica

2020-06-21 18:43:39 | 哲学

 バウムガルテンが1750年に出版した Aesthetica は、美学を哲学体系の中に初めて位置づけた記念碑的な著作として紹介されるのが一般的だが、この書名を『美学』と訳すことには問題がある。なぜなら、バウムガルテン自身は、この自らの新造語によって、悟性的認識論の下位に位置づけられる感性的認識論を構想していたのであり、その中で美の問題は小さな位置しか与えられていないからある。それなのに、『美学』と訳したのでは、美を主たる学的対象とした著作であるかのように誤解されてしまう。しかも、美学の定義は今日でも容易なことではない。
 本書で悟性的認識と感性的認識との違いを説明するための例として挙げられている日食の例は示唆的だ。前者は、この天体現象を天文学的に説明することからなるのに対して、後者は、羊飼いがその恋人にこの現象を見たときの感動を語るようなことだとし、前者の真理を veritas logica、後者のそれを veritas aesthetica と呼ぶ。
 この区別はカントにも受け継がれる。『判断力批判』の中で、 大海原の崇高さをそれとして感得するためには、その光景の知覚に学的知識を結びつけてはならならず、詩人がそうするように、大海原が自ずと現れるのを見ることができなくてはならないという。例えば、ただ大空によってのみ限界づけられた輝く鏡のように静かな海、あるいは、すべてのものを飲み込む深淵のように荒れている海をそれとして見ることができてはじめて崇高さを感得できるという。
 ただ、そのように見ることができれば、美的体験をもったとは言えるかも知れないが、それだけでは個々の体験例というに過ぎない。悟性的認識における真理の表現が概念を必要とするように、感性的認識にも、上掲の例のような美あるいは崇高を表現する言葉、対象をそのように見ることへと導く言葉、そのような現象を現前させる言葉が必要だ。それが詩的言語であり、それによって実現されているのが veritas aesthetica だ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


最新の画像もっと見る

コメントを投稿