内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

美の経験、美の表現、美についての言説、言語の美、美の概念

2020-06-22 23:59:59 | 哲学

 今日の記事のタイトルは、美にまつわる言葉をただ思いつくままに並べたのではない。これらのそれぞれが指し示している事柄を明確に区別することが美の問題を考えるときには不可欠だということを Le beau et la beauté au Moyen Âge, édité par Olivier Boulnois et Isabelle Moulin, Vrin, 2018 をところどころ読みながら考えた。
 美しいものを感受することはいつの時代にもあっただろうが、何を美しいと感じるかは時代によっても文化によっても、さらには人によっても違う。それに、同じ対象の美しさの感じ方も違う。中世の絵画や建築を見て、現代の私たちが感じるようには中世の人々は感じてはいなかった。キリスト教世界では、知解される美、つまり感覚世界を超越した美に優位を置き、感覚的美に超越性を認めることは例外的なことだった。
 美の表現も、それが何かに奉仕するための目的連関の中で目指される場合と、美そのものが目的とされる場合とでは、表現者における美の経験の質は異なる。享受者のそれも異なる。中世キリスト教世界においては、感覚によって感受される美は、美の経験の最終目的ではないから、美の享受者という概念自体が不適切の誹りを免れがたい。
 美学という一つの学的体系は、昨日の記事で見たように、18世紀半ばの産物であり、それ以前には、美についての言説はつねに他の問題との関連において展開された。それらの言説を、それぞれの文脈を無視して、整合的な美学的言説とみなし、そこになんらかの体系性を読み込もうとすることは問題を見誤らせる。
 美の経験について語る文章が美しいとはかぎらない。経験された美しさが少しも伝わってこない悪文は美しくない。美についての議論が美しいとはかぎらない。美についてのただ難解なだけの抽象的議論は美しくはない。しかし、美しくはない議論が正しくないとは言えない。
 言語表現の美しさは、記述された内容の美しさとは別の問題である。残酷なまでに悲劇的な場面の表現の美しさに打たれることがその一例である。
 美の経験と美という概念との関係はまた別の問題だ。
 などなど、上掲書に触発されてぼんやりと考えた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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