内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

シモンドンはなぜホラティウスの詩句「私のすべてが死ぬわけではない」を好んで引用したのか

2022-10-31 06:42:21 | 哲学

 昨日の記事で取り上げた論文の筆者は、別の論文の中で、シモンドンが好んで引用するホラティウスの詩の一節を紹介している。柳沼重剛編『ギリシア・ローマ名言集』(岩波文庫、2012年)にその一部が収録されている。

私は記念碑を建てた.青銅よりなお固く,
王たちの建てたピラミッドよりなお高く,
降り注ぐ雨水も,荒れ狂う北風も,
数え切れぬほどの年月も,去り行く時の流れも,
毀ち得ぬ,そういう記念碑を.

ホラティウス『詩集』第三巻より

 シモンドンは、上掲の一節の第一行目の「私は記念碑を建てた.青銅よりなお固く(永遠に続く) Exegi monumentum aere perennius」を ILFI の251頁でラテン語のまま引用している。作品がその作者に永遠性や不死性を感じさせることの例証としてシモンドンはこの詩に言及している。そして、この経験された永遠性や不死性を有限な個体の超個体性への可能性として一般化する。
 また、同書 311頁では、上掲の引用の直後の一言 « Non omnis moriar » を引用している。この一句は「私のすべてが死ぬわけではない」という意味である。原詩は、ホラティウスが自分の三巻の詩集を編み終えたときに発表した誇りにみちた作品である。しかし、それは現世の儚い栄誉に酔ってのことではない。今は亡き無数の人たち、いまだここには到来していないものたち、己をどこまでも超えている聖なるものへと自らの詩が捧げられていることを誇らかに謳い上げているのだ。
 シモンドンは、この一句を、時間空間的に有限な一個の個体としての人間の個体性を超えた第二の個体化、〈今・ここ〉を超えて広がる集合的・精神的個体化の次元の経験として捉えている。詩作という技術(アルス)によって、さらには技術(アルス/テクネ―)一般によって、有限な個体としての人間存在が与りうる participable な超個体性がその文脈での主題である。個体化された個体である人間存在が技術(アルス)によって時を超え、より高次な個体化のレベルにおいて生き続けることにシモンドンは聖性を見ている(この participable という語の用法と技術の聖性については、拙論「自然の創案 自然の技術性と技術の本性」を参照されたい)。
 技術がその本来の聖性を忘却し、その聖性を破壊する方向に転ずることは、技術にとって非本来的な悪用であり、技術の自己破壊であるばかりでなく、有限な時間と空間をつねに超え続ける多元的な個体化過程の破壊であり、超個体性の次元の破壊である。