内的自己対話-川の畔のささめごと

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十八世紀ヨーロッパにおける日本観 ― ケンペル『日本誌』をめぐって(上)

2022-10-18 23:59:59 | 講義の余白から

 オランダ商館付の医師として1690年に来日したドイツ人エンゲルベルト・ケンペル(Engelbert Kämpfer, 1651-1716)が二年余りの日本滞在中の見聞と収集した資料を基にドイツ帰国後に執筆した『日本誌』は「近代日本の歴史と社会」で必ず取り上げる(『日本誌』については、このサイトに詳しい紹介が掲載されており、とても参考になります)。
 ケンペル生前には出版が叶わず、死後原稿はイギリスに渡り、まず英訳が1727年、ついでフランス語訳(Histoire naturelle, civile, et ecclésiastique de l’Empire du Japon. この仏訳は BNF の Gallica で 全文 Tome 1, Tome 2が無料で閲覧及びダウンロードできる)が1729年、オランダ語訳が1733年に刊行される。ケンペルのドイツ語原稿原文に基づいたドイツ語版が出版されるのは英訳の五十年後の1777年から1779年にかけてのことである。
 それ以前は想像の産物でしかなかった「日本」について、初めて現地での見聞と鋭い観察眼によって当時の日本の政治・社会・慣習・風物・自然などを記述した本書の英訳と仏訳は、出版当時からヨーロッパでかなり広く読まれたようで、同時代のヨーロッパの思想家たち、わけてもモンテスキュー、ディドロ、カント、ゲーテなどに影響を与えている。例えば、カントが『永遠平和のために』の中で日本や中国の鎖国政策について、当時としてはむしろ賢明な政策であったと肯定的に評価しているのはケンペルの『日本誌』の知見に基づいている。
 志筑忠雄が『日本誌』の付録論文の一つをオランダ語訳から日本語に訳して『鎖国論』として公にしたのは1801年のことであり、これが「鎖国」という言葉の起源であることは、高校の日本史の教科書にも載っている。しかし、「鎖国」という言葉が広まるのは幕末以降のことであり、「近世日本=鎖国」という図式が広く国民の「常識」となるのは、近代日本においてのことである。
 ドイツ人啓蒙思想家クリスチアン・ヴィルヘルム・ドーム(Christian Wilhelm Dohm, 1751-1820)は、自身が編集・出版した『日本誌』ドイツ語版(1777年-1779年)に基づいて、同書の中に提示されている肯定的日本論に対して批判的な論評を加えている。荒野泰典は、『「鎖国」を見直す』(岩波現代文庫、2019年)の中でこの論評の一部を引用しつつ、「ヨーロッパにおけるいわゆる「鎖国」の評価が一変してしまった」と指摘している(37頁)。
 この十八世紀後半のヨーロッパに端を発する近世日本に対する外からの否定的イメージが日本国民によって自国の「近世」という過去として同化されていくのは明治中期以降のことである。