内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

単数・複数意識と非量化的意識の間で揺れ動く

2022-10-08 23:59:59 | 日本語について

 2015年3月2日の記事で井筒俊彦の「単数・複数意識」と題された短いエッセイのことを取り上げたことがある。「単数でも複数でもなく、それでいて、単数的でも複数的でもあり得る日本語の「猫」は、英語の世界には生息しない」という印象的な一文がはじめのほうに出てくる。その直後の段落で次のように言われている。

 日本語には、この点で、独自の曖昧さがある。だが、それで結構、用は足りている。だいいち、曖昧だなどというのは、外国人的な見方で、そんな意識は、欧文調の論文でも書く場合は別として、通常、日本人にはない。

 確かにそうだろう。それに、井筒自身が和歌や俳諧を例に挙げて述べているように、この単複の不決定性あるいは非量化性が独特の詩的感性の世界をもたらすとも言えるだろう。
 他方、常日頃、日本語の論文や説明文を仏語に訳していると、単数か複数か選ばなくてはならず、はたと迷ってしまうことがしばしばある。例えば、次の一文を見ていただきたい。

十六世紀半ばの日本とヨーロッパとの出会い以降、日本の歴史もまた大きく転回した。その一つとして、ここではヨーロッパ人による日本の記録が出現することをあげておきたい。

 「その」は何を指しているか。「転回」以外には考えられない。とすれば、この転回は複数だということになる。しかし、いくつもの転回があったとは書いてない。転回の規模が大きいのであって、転回が複数あったとは明示されていない。そう解釈する根拠もない。この論文の筆者は、おそらく、転回をもたらした要因あるいは転回を構成する要素が複数あると考えていて、「その一つ」としたのであろう。
 どう訳すか。DeepL に翻訳させるとこうなった。

Depuis la rencontre entre le Japon et l’Europe au milieu du 16e siècle, l’histoire du Japon a également pris un tournant important. L’une d’entre elles, que je voudrais mentionner ici, est l’émergence de comptes européens sur le Japon.

 「その一つ」が « l’une d’entre elles » と訳されているが、代名詞女性複数形で受けるべき女性名詞複数形は前文にはない。だから、その他の部分はほぼ完璧な訳だが、ここだけは誤訳だと言わざるを得ない。この仏訳だけを読んだ人は、 « elles » はいったい何を指しているのかと首を傾げるだろう。
 ここは、しかし、機械翻訳の不完全さを問うべきところではない。日本語原文の中の「その一つ」の「その」が指しているものが実は「転回」ではないところに問題がある。言葉を補って訳さざるを得ない。そこで私は « l’un des éléments constitutifs de ce dernier » とした。つまり、「この転回を構成する諸要素の一つ」としたのである。そもそも、原文が「その転回の一側面として」とでもなっていれば、このような問題は発生しなかった。
 これはほんの些細な一例に過ぎない。しかし、単複の区別が曖昧でも不決定でも用は足りるとばかりは言っていられない場合もある。それが重大な誤解を招かないともかぎらない場合もある。常に注意深くありたいと私は思う。