内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

歴史学における全体性という方法的概念 ― 安丸良夫『〈方法〉としての思想史』「はしがき」に触れて

2022-10-23 17:14:06 | 読游摘録

 安丸良夫は『〈方法〉としての思想史』(法藏館文庫、2021年)の「はしがき」(というには31頁とあまりにも長く、むしろ「序論」あるいは「序説」とでも名づけたほうがよいのではと思うが)の中で、歴史学における全体性について次のように述べている。

私は、歴史学には全体性という概念が重要だと考えるが、それはいわば史料からは見えにくい次元も含めて歴史の全体性をダイナミックに見るための方法的概念である。私たちが実際に知りうることはむしろ狭く限定されているのだけれども、私たちは無自覚のうちにも個々の知見を全体性の光に照らしてとらえかえしているのであり、問題はそのことを自覚化し方法化することができるか否かにあるのであろう。(31頁)

 私たちが個々ばらばらの事実とされるものをそれとして受け取るときでも、それは私たちが無自覚のうちに前提してしまっている全体性の中でのことであり、その全体性が構成する歴史的遠近法の中で軽重がすでに計量されている諸事実に対して、それらを重視したり軽視・無視したりしている。あるいは、その遠近法の中ではそもそも意識にさえ上ってこない事実さえ無数にある。
 だから、その全体性を自覚化し方法化しないかぎり、私たちは事実を「事実」として受け取るがことできず、事実は事実だというトートロジーの中で思考を停止し、「事実」を「事実」として捉える方法を持たず、結果、事実から疎外される(ここで一言断っておくと、私が区別している事実と「事実」とは、安丸良夫のテキストにおいては「事実」と表象との関係として問題化されている)。
 そもそもヌーメノンとしての歴史的事実は理論的に認識不可能であり、歴史学が対象とすべきなのは史料であり、その分析こそが歴史学者の使命であるとする立場もあり、あるいは、ごくわずかの確実に知りうる事実に至ることのみを歴史研究の目的とする立場もありうるが、安丸の立場はそのいずれでもない。
 その都度時間空間的に具体的に限定された問題領域の中で、事実と「事実」との関係性の総体を全体性として方法的に措定しつつ、諸史料が語る個々の「事実」を検証することによって、措定された全体性を問い直し続ける。それが安丸の方法論なのだと私は思う。
 この作業に終わりはない。「全体をとらえる構想力・理解力に支えられてはじめて史料が生かされうるのである」(32頁)とすれば、全体性を方法的に措定することは、その全体性に史料を従属させることではなく、まったく逆に、措定された全体性の整合性・合理性を史料によってつねに検証し続けることである。
 この終わりなき作業こそがあらゆる教条主義や決定論から距離を取りつつ柔軟に考え続けることを可能にしてくれる。
 方法は、ただ踏襲されればよいものではなく、ましてやその適用の結果得られたものをただ受容すればよいわけはなく、それ自体が検証され続けるときにのみ、つまり、実践しつつそれに囚われないときにのみ、思考の自由を与えくれる。