寺田透の『道元の言語宇宙』(岩波書店 一九七四年)に収められた最後の文章「相逢」は、一九七二年五月十一日、日本女子大学教養特別講座における講義がもとになっており、のち七三年六月、同大学発行「日本をみつめるために」に掲載された。講義のときの話し言葉がかなり忠実に再現されているようである。
「相逢」は、禅語としては「そうふ」と訓む。和語としては「あひあふ」と訓み、人と人とが出会うことを意味する点において両者は共通するが、禅語としては特に師匠と弟子との出逢いを指す。
師を求めて捜す者が師となるべき人に出会う相逢は、少なくとも次の三つの条件を満たさなくてはならない。偶然性と相互性と全人格性である。捜すという以上、誰が自分の師匠なのか出会う前はわからない。実際に出会ったそのときにはじめて自分が探していた師はこの人だとわかるときしか相逢は成立しない。しかし、捜している者がついに我が師を見出したと思っても、当の捜されていた師がその求めを受け入れなければ、やはり相逢は成立しない。さらに、師匠と弟子との間に「全身全霊をあげての一致が成り立つ」(四八三頁)ときにはじめて相逢は成り立つ。
相逢はこのような師匠と弟子との出会いを第一義的に意味する。しかし、寺田透はこの文章で、バルザック、ランボー、道元それぞれに自分がどのように出会ったのか、そしてこの三者は自分においてどのように相逢ったのかを語っている。
寺田の文学的探究にとって特に大切なことは、精神の自由、表現の自由である。バルザックとランボーは、それぞれに表現の自由を探究し、それを通じて精神の自由を実現した。この自由の探究が寺田を道元と出逢わせる。道元の文章にあるのもやはり、「表現と思想内容における非常に透明な自由」だと寺田は言う(四九八頁)。
寺田の文章を読み終えて、私には以下のような疑問が残った。何かを探し求めていて、偶然、ある言語表現に出逢う。人に出逢う場合と違って、相手がテキストの場合、相逢の第二の条件である相互性はどのように確かめられるのか。そのテキストの作者が生きているか死んでいるかはここで副次的な問題である。第三の条件である全人格性はそもそも読む者とテキストの間に成り立つのであろうか。