時枝誠記の論文「朝鮮に於ける国語 実践及び研究の諸相」は『国民文学』三巻一号(一九四三年一月)に掲載された。その中で時枝はこう主張する。
半島人は須く朝鮮語を捨てゝ国語に帰一すべきであると思ふ。国語を母語とし、国語常用者としての言語生活を目標として進むべきであると思ふ。今日に於ける朝鮮語の現状は、古くは漢語漢字の圧倒的な勢力と、近代に於ける国語との接触のために、甚しき混乱と不統一に陥り、半島人の言語生活は必しも幸福であるとはいひ得ない。この現状を脱却する唯一の道は国語によつて半島の言語生活を統一するより外に道はない。
この「甚だしき混乱と不統一」を生ぜしめたのは日本国家である。その責任を完全に不問に付し、半島人の不幸な言語生活にあたかも同情しているかのような文言は偽善的との誹りを免れがたい。時枝のいう国家的見地は、一つの立場に過ぎず、国語の強制と他言語の排除を無条件に正当化する論拠とはなり得ない。国家的見地に立たない一個の言語主体にとって、日本語を国語として受け入れることは一つの選択肢ではありえても、無条件的に受け入れるべき「唯一の道」ではない。
いかなる言語主体も母語を選択することはできない。言語主体にとって母語はその可能性の条件であって、選択の対象ではあり得ない。国語としての日本語を母語とする言語主体の誕生は、国語としての日本語が母語である両親(あるいはそれに代わる存在)、もしくは日本語を国語として主体的に選択した両親(あるいはそれに代わる存在)を前提とする。とりわけ日本語のみによって自らの子らと話す〈母〉を必要とする。
そこから朝鮮半島の女子教育における国語教育の重要性が導き出される。しかし、時枝理論における言語主体の定義に従うならば、国語は外的拘束として強制されてはならず、相互了解という目的のために言語主体自身によって主体的に選び取られなければならない。言い換えれば、主体が国語を選択するのを待たなければならない。この言語主体による主体的選択はその主体の成熟を必要とする。
その成熟を待たずに行われる言語教育は多かれ少なかれ強制的でしかありえない。しかし、国語の母語化を推進するためには、できるだけ早期に国語教育を始めなくてはならない。その教育は「未熟な」言語主体に国語を一方的に「刷り込む」とき最も効率的である。
つまり、国家政策としての国語の母語化の効率的な実行は、与えられたものを「素直に」受け入れる言語主体の「未熟さ」を必要とする。その限りにおいて、時枝の言語理論の基礎概念である言語主体の主体性は、国語の母語化教育において著しく制限されざるを得ない。