内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

「空は一草なり、この空かならず花さく、百草に花さくがごとし」―『正法眼蔵』「空華」巻より

2022-08-23 18:08:06 | 雑感

 今日、六十四歳を迎えた。今朝も走った。十一キロ走った。健康に恵まれていることはありがたい。昼、妹夫婦がバースデーケーキを用意して祝ってくれた。
 この歳になるまで何かを達成したということもなく、何かになったということもなく、歯を食いしばって艱難辛苦を乗り越えたわけでもなく、我が世の春はついぞ訪れることもなく、大海に行方も知らず漂う一艘の小舟の如き人生であったし、これからもそうであろう。
 何があっても揺るぎなき覚悟はもちろんなく、恬淡とした諦念の内に悟り澄ます柄でもない。壊れつつあるかに見える世界の中で得体の知れない不安に押し潰されぬよう、せいぜいのらりくらりと工夫を凝らしつつ、天恵にほかならないその日その日を暮らしていきたい。
 ただ、単著は一冊遺したいと思っている。その端緒が開かれたことがこの夏の恵みのひとつであった。
 頼りなきこと枯れかけた葦の如き自分へ、『正法眼蔵』の「空華」の中のこの上なく美しい文章を贈る不遜を許されたし。

 まさにしるべし、空は一草なり、この空かならず花さく、百草に花さくがごとし。この道理を道取するとして、如来道は「空本無華」と道取するなり。本無花なりといへども、今有花なることは、桃李もかくのごとし、梅柳もかくのごとし。梅昨無華、梅春有華と道取せむがごとし。しかあれども、時節到来すればすなはちはなさく花時なるべし、花到来なるべし。この花到来の正当恁麼時、みだりなることいまだあらず。梅柳の花はかならず梅柳にさく、花をみて梅柳をしる、梅柳をみて花をわきまふ。桃李の花、いまだ梅柳にさくことなし、梅柳の花は梅柳にさき、桃李の花は桃李にさくなり。空花の空にさくも、またまたかくのごとし。さらに余草にさかず、余樹にさかざるなり。空花の諸色をみて、空菓の無窮なるを測量するなり。空花の開落をみて、空花の春秋を学すべきなり。空花の春と余華の春と、ひとしかるべきなり。空花のいろいろなるがごとく、春時もおほかるべし。このゆへに古今の春秋あるなり。空花は実にあらず、余花はこれ実なりと学するは、仏教を見聞せざるものなり。「空本無華」の説をききて、もとよりなかりつる空花のいまあると学するは、短慮小見なり。進歩して遠慮あるべし。

 この一節の最初のニ行ほどについて2018年5月6日の記事で注解を試みたことがある。それは「花から花への蝶躍的現成論」と題された四回の連載の最終回でのことあった。あわせてご覧いただければ幸いです。