内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

寺田透という発語体

2022-08-21 23:59:59 | 読游摘録

 寺田透の『道元の言語宇宙』に「日本人の思想的態度――正法眼蔵の場合――」というタイトルで収められている文章は、1970年5月8日と15日の岩波市民講座での二回の講演がもとになっており、のち「図書」同年六月号、七月号に掲載された。その講演は岩波の日本思想大系の第一回配本として刊行された寺田透・水野弥穂子校注『道元 上』の発刊記念として催されたと思われる。その講演を聴いた大岡信は「おそらく最上級の耳学問をした」とその時の感想を『道元 下』(第二十回配本)の月報に寄せた文章「寺田透と正法眼蔵」に記している。
 「日本人の思想的態度」は講演体になっており、おそらく講演速記に手を入れてなったものであろう。聴衆に諄々と説く趣があり、道元の用語法を執拗と思われるまでに探究するその姿勢について、大岡信は同じ月報の文章の中で、「寺田透という発語体は、道元に直面して語るたびに、ほとんど違った意味、ニュアンスで語る。けれども、私は新しい寺田透の文章を読むたびに、古い文章を読み返して、寺田透が終始変わらずに寺田透であることを確認する。にもかかわらず、新しい寺田透の道元論は、必ず私にとって衝撃的な局面を新たに示しているのである」と述べている。
 その言語表現の探究の徹底性と大胆さは確かにとても示唆的かつ刺激的だ。ここまで一つのテクストを読みこめる例というのはそうそうないのではないかと思う。
 例えば、「透体脱落」の「透」について、「透というのはいろいろな意味があって、透明の透という意味もむろんありますが、透体脱落というときの透はそういう意味ではなくて、おどる、はねるという意味です。おどり出て実体性を越えてこれを脱落してしまうということで、けして透明化されるという意味ではありません」(284頁)と指摘するところや、「透脱というのは[…]、この透もおどり出るということです。言葉が念慮を透脱する。おどり出、はね越えて念慮の拘束を脱して、それ自身として存立するということです」(291頁)というところなど、はじめて読んだときには目の覚めるような思いをした。