内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

夏休み日記(17)― 発表原稿の隠し味(その三)「限りなく柔軟なコスモス」をもし信じられたら

2019-08-19 23:59:59 | 哲学

 三番目の隠し味は、井筒俊彦の『コスモスとアンチコスモス ― 東洋哲学のために ―』(岩波文庫、2019年)から引き出すつもりだった。だが、今になって、それを躊躇っている。というのも、今回読み直してみて、こういう壮大なスケールの言説に今いったいどんな意味がありうるのだろうかとすっかり懐疑的になってしまっている自分を見出したからである。
 本書所収の「コスモスとアンチコスモス ― 東洋哲学の立場から ―」は1986年の公開講演筆録が基になっている。もしその当時に読んでいたら、私はその内容に熱狂していたかも知れない。しかし、今は、西洋哲学と東洋哲学とを対比するその図式に、たとえそれが方法論的に裏付けられ、多数の原典に基づいたものであれ、とても同調する気になれず、思わず引いてしまうのだ。

 このようなコスモス観(=自分がその中で生きているコスモスは、実体的に凝固した無数の事物からなる一つの実体体系であると考えるコスモス観)に対して、東洋哲学は、おそらくこう主張するだろうと思います。たしかに、「有」がどこまでも「有」であるのであれば、そういうことになるでもあろう。「有」が究極においては「無」であり、経験世界で我々の出合うすべてのものが、実は「無」を内に抱く存在者(「無」的「有」)であり、要するに絶対無分節者がそのまま意味的に分節されたものであることを我々が悟る時、そこに自由への「開け」ができる。その時、世界(コスモス的存在秩序)は、実体的に凝り固まった、動きのとれない構造体であることをやめて、無限に開け行く自由の空間となる、と。なぜなら、一々のものが、それぞれ意味の結晶であり、そして意味なるものが人間意識の深層に淵源する柔軟な存在分節の型であるとすれば、「無」を体験することによって一度徹底的に解体され、そこから甦った新しい主体性―一定の分節体系に縛りつけられない融通無礙な意識、「柔軟心」―に対応して、限りなく柔軟なコスモス(限りなく内的組み替えを許すダイナミックな秩序構造)が、おのずからそこに拓けてくるであろうから、であります。(271頁)

 こういう言説を批判したいのではない。このような美しい文章を書かせる高貴な精神に讃仰の念さえ抱く。同様に深遠な思想を抱く高潔な方々もいらっしゃることであろう。私はといえば、しかし、「無限に開け行く自由の空間」とか「融通無礙な意識」とか「限りなく柔軟なコスモス」とかの表現を見ると、それらが理想的な何事かを示すものであればあるほど、とても虚しい気持ちになってしまうのです。