内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

花のゆくへ ― 無常観の系譜学序説(2)、「過ぐ」から「うつろふ」へ

2019-03-18 18:25:17 | 講義の余白から

 昨日の記事の続きで、佐竹昭広論文「自然観の祖型」からの摘録。
 万葉集の挽歌には、比喩的に人の死を指して「散り過ぐ」と言った例がある(巻十三・三三三三)。単に「過ぐ」の一語だけでも「死ぬ」の婉曲表現であった(巻二・四七、巻二・一九五・一云、巻二・二〇七、巻三・四二七、巻三・四六三、巻九・一七九六)。
 「古代日本語においては、自然界の推移も人の死も、共に「過ぐ」という一語で把握していた。[中略]この「過ぐ」の両義性が、必然的に日本人の自然観を仏教的無常観と二重写しにして行く」(四七頁)。
 すでに今年の2月23日の記事で言及したことだが、この佐竹論文には、万葉集の自然観に無常観への傾斜が認められることを指摘した先学として大西克礼の名が挙げられ、『万葉集の自然感情』(昭和十八年刊)からの長い引用がある。それについては拙ブログの当該記事並びにその翌日の記事を参照されたし。
 万葉第四期つまり最後期を代表する大伴家持が第三期を代表する赤人の時代と古今の時代との間にあってどのような位置を占めるかについて、小西甚一は『日本文学史』のなかで次のように述べている。

八世紀の中ごろよりあと、いわゆる奈良時代後期を代表するのは、大伴家持である。家持のころになると、長歌には見るべきものが無くなり、抒情詩としての短歌が完成の段階に達する。それは、純然たる「個人」が和歌的世界に確立されたことだと言ってよい。和歌における「古代」が終末に近づいたのだと言い換えてもよいであろう。それをいちばん明瞭に示すのが、かれの表現における景情融合である。赤人における景情融合は、叙景の底に心情が沈みきった表現であり、その融合は本来的のものであった。すなわち、意識的に景と情を融合させようとする努力が、すこしも無いのである。家持においても、努力というほどのものは、存在しない。が、表現しようとする心情にいちばん適わしい景象は、あきらかに選択されている。 その、いちばん適わしい状態において景と情が融合しているということは、精神と自然とが、ある距離をもつに到ったことであり、そこに、わたくしどもは、中世的な影を感じないわけにはゆかない。しかしながら、家持において、精神と自然とは、あくまで「融合」の状態に在るのであり、古今集時代のような分裂は見られない。(『日本文学史』講談社学術文庫、一九九三年、四二頁。初版一九五三年)

 家持において、小西が言うところの精神と自然との間にある両者の融合をなお妨げない程度の距離と「うつろふ」という動詞の愛用とは無関係ではないだろう。
 家持の次の時代からは「相対的に「過ぐ」よりも「うつろふ」の語が主流を成す」ようになる(佐竹昭広『萬葉集再読』五六頁)。家持においては個としての自然感情の表現として用いられた「うつろふ」が、古今集以後の時代では歌人たちによって一種の共通感情として共有されるようになると同時に、まさにそのことによって精神と自然との分裂は決定的となり、詩的世界の内向化が進む。
 平安期に入り、「はかなし」という形容詞が登場するのも、「うつろひ」にはまだそれなりの順序があったのに対して、例えば、和泉式部日記の冒頭の「夢よりもはかなき世の中を嘆きわびつつ」に見られるように、男女の仲にほかならない世の中の「はかなさ」においては、もやは「うつろふ」順序さえ確かではない。いわゆる仏教的無常観とは区別されるべきこの情感的無常感の深まりが、日本文学に浸透した仏教的無常観に独特の色合いを与えていく。