内的自己対話-川の畔のささめごと

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太平洋戦争期の萬葉研究に秘められた学問的抵抗の姿勢 ― 大西克礼著『萬葉集の自然感情』(昭和十八年刊)について

2019-02-23 02:14:00 | 講義の余白から

 萬葉集の自然観に無常観への傾斜が認められることを指摘した先学として佐竹昭広が『萬葉集再読』所収の「自然観の祖型」の中で名前を挙げているのは大西克礼である。そして、白川静『初期万葉論』を取り上げた先日の記事にも引用した『萬葉集の自然感情』(昭和十八年刊)から、かなり長く引用している。
 その引用箇所を読む前に、今日の記事では、カントの『判断力批判』の精緻な読解から出発して、日本固有の美的意識をも視野に入れつつ独自の美学体系を構築するに至った大西克礼になぜ私が注目するのか、その理由について一言触れておきたい。
 その第一の理由は、日本古典文学に対するその美学的研究には今日もなお傾聴に値する優れた考察が展開されていることである。だが、それだけではない。西欧の近代美学の篤実な研究を通じて鍛え上げられた方法論を日本古典文学のテキストに適用する試みの一つである『萬葉集の自然感情』が、太平洋戦争期の真っ只中に刊行されたという事実に注目したいのである。万葉集が太平洋戦争期に戦意高揚の道具として悪用されていたことは周知の事実だが(近代国民国家における文化装置としての「万葉集」というより広範な問題については、品田悦一『万葉集の発明』新曜社二〇〇一年刊を参照されたし)、本書の序言には、そのような時代の風潮への、学問的矜持に支えられた静かな精神的抵抗の姿勢を読み取ることができるように私には思えるのだ。このような読み方は穿ち過ぎというものであろうか。
 序言の冒頭で、「自然感情」という一般には耳慣れない言葉について、「ドイツ語の “Naturgefühl” の訳語で、ただ自然に対する感情という程の意味に過ぎない。無論この場合の「感情」とは、極めて広い意味であって、自然に対する精神の直接的反応は、殆どすべてその中に包含されるのである」と緩やかに定義した上で、日本では、「この自然感情が特殊の発達を遂げ、わが民族の芸術精神の根柢としても、この独自の自然感情が、非常に重大なる意義を有することは、今更縷説を要しないところである」と日本の特殊性を認める。しかし、大西が認めるこの特殊性は、当時喧伝されていた「日本精神」などという虚構とは無縁である。それは、つぎのような比較美学の方法の導入の必要性を訴える箇所を読めばわかる。

 しかしながら、このような特殊の研究を効果的ならしめるためには、先ずこれに対する根本的観点を確立し、且つそれを広い視界(ホリツォント)に置くことが必要である。或る民族の自然感情の特性は、その精神の先天的傾向と、その風土の特殊の自然とに規定されるものであることは言を俟たない。従ってこれを充分に解明するためには、比較研究の方法が当然要求される。またこのような自然感情の本質の闡明は、単なる心理学的問題に終始するものではない。謂う所の自然感情を文化的に意義あらしめるものは、芸術の精神である。故にこれが研究はそこに根本的の観点を据えて、行われなければならない。

 前著『風雅論』(昭和十五年刊)の緒言はこう結ばれている。

 要するに本書には、幾多の缺陥があらうとは思ふけれども、此の方面の問題を、本書の如き立場や方法によつて研究したのは、從來かつてなかつたとは言ひ得るであらう。故に若し本書がその不備にも拘らず、将来此の種の研究を喚び起こす一つの刺激ともなるべきものであるならば、此の聖戦の非常時下に、斯くの如きものを世に公にすることも、また許されないことではなからうと思ふ。

 日本固有の美学的理念の個別研究としては、九鬼周造の『「いき」の構造』(昭和五年)があまりにも有名であるが、九鬼と同年(一八八八年)生れの大西克礼の、時流におもねることなく、あくまで美学の問題として日本文化固有の美学的理念を概念的に厳密に規定しようとするその比較美学的研究は、もっと高く評価されるべきであると私は思う。












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