内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

『蜻蛉日記』の夢の記録が意味するもの(上)

2019-03-28 23:59:59 | 講義の余白から

 修士一年の演習の講読テキストを唐木順三の『無常』にしたことは先月16日の記事で話題にしたが、今日の演習がその四回目であった。二人の学生に「(三)かげろふの日記」のⅢを前半と後半とにわけて報告してもらった。どちらも真面目で優秀な学生で、概ね内容をしっかりと把握できていた。ただ藤原道綱母の心理の複雑さについての唐木による立ち入った分析にはちょっとついていきかねるところもあったようだ。それは無理もないことだ。そのあたりは私の方からできるだけ噛み砕いて説明を試みた。
 その『無常』「(三)かげろふの日記」のⅢの後半に、『蜻蛉日記』の中の夢の話に言及している箇所がある。たった一文だけなので、『蜻蛉日記』の当該箇所を読まなければ、なんのことだかわからない。どの箇所を指しているのか唐木の本には示されていないが、文脈からして、中巻の「石山詣で」の段に出てくる夢の話のことであろう。

 さて夜にはなりぬ。御堂にてよろず申し、泣き明かして、あかつきがたにまどろみたるに、見ゆるやう、この寺の別当とおぼしき法師、銚子に水を入れて持て来て、右のかたの膝にいかくと見る。ふとおどかされて、仏の見せたまふにこそはあらめと思ふに、ましてものぞあはれに悲しくおぼゆる。

 岩波古典文学大系版の川口久雄による補注には、「銚子や水は正しく性的な象徴で、岡一男氏のいわれるようにこの夢は禁断された願望の昇華されたものであろう」とある。
 新潮古典集成版の頭注には、「この夢の内容について、「銚子―膝―いかく」は、明らかに性的な象徴であろう。そこに「抑圧された願望の昇華されたもの」(岡一男『道綱母』)を読み取るのは、おそらく正しいであろう。だが、この夢をここに位置づけた作者にはそうした自覚はなく、むしろ現下の懊悩からの救済を暗示する、霊験譚的な夢告として受け取られていたようである」と、さらに懇切な注解がある。
 ジャックリーヌ・ピジョーの仏訳の脚注は、 « On a glosé ce rêve, en l’interprétant soit comme la sublimation d’un désir refoulé (la louche, le genou, l’acte de verser étant des symboles sexuels), soit comme un rite conjuratoire de guérison par l’eau, etc. » と中立的に既存の解釈を記すに留めている。
 私が演習で特に問題にしたのは、夢のフロイト的解釈の妥当性ではなく、道綱母がこの箇所も入れて計六つの夢の記録を残したのはなぜか、そして、その記述の仕方から道綱母の心の在り方をどう読み取るか、ということだった。これらの問いに答えるために重要な手がかりを与えてくれるのが西郷信綱の『古代人と夢』である(この名著には2017年12月12日の記事でも言及した)。