内的自己対話-川の畔のささめごと

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『蜻蛉日記』の夢の記録が意味するもの(下)― 苦悩の果ての判断停止がもたらした眼差し

2019-03-30 10:49:01 | 講義の余白から

 『蜻蛉日記』に記述された夢の記録でもっとも印象深いのは、天禄二年四月の記事であろう。まず、その全文を引く。

 二十日ばかり行なひたる夢に、わが頭をとりおろして、額を分くと見る。悪し善しもえ知らず。七八日ばかりありて、わが腹のうちなる蛇ありきて、肝を食む、これを治せむやうは、面に水なむいるべきと見る。これも悪し善しも知らねど、かく記しおくやうは、かかる身の果てを見聞かむ人、夢をも仏をも、用ゐるべしや、用ゐるまじやと、定めよとなり。

 この箇所について、性的苦悩のうずきを見ているのが岩波古典文学大系本校注者の川口久雄である。一昨日の記事で引用した箇所と合わせて、川口は補注で次のような解釈を提示している。

石山の夢と共にこれらは作者が長い間の空閨のもだえ、性の渇きが、転移され昇華されて、法師が法水を注ぎかける夢となったのであろう。蛇が肝をはむというのも恐怖というよりも惨酷な願望の変型で、蛇は男性器を意味するかもわからない。これら三つの夢はいずれも一聯のものであって、作者の内なる性の欲望と、神へのおそれとの葛藤、獣性と神性との二元のたたかい、はげしい矛盾とみじめなコムプレックスの象徴として興味がある。

 これはこれで夢の解釈としては妥当なのかも知れないが、道綱母自身がなぜこの夢をこのような仕方で記述したかの答えにはなっていない。西郷信綱も、夢の精神分析学的解釈には興味を示さず、夢そのものの記述の後の「かく記しおくやうは、かかる身の果てを見聞かむ人、夢をも仏をも、用ゐるべしや、用ゐるまじやと、定めよとなり」という道綱母の注釈に注目する。
 西郷が言うように、これは当時として実に驚くべき態度の表明だ。夢が「仏のみせ給ふ」ものとはその時代の通念であり、道綱母もそれを共有してはいた。

しかし作者のなめた経験の量と質は、こうした一般通念の枠をきわどく越え出て行き、わが身のはてを見とどける人が、夢とか仏とか信ずべきかどうか、これをもとに後に決めよと記す。作者は夢とか仏とかは頼りにならぬものだといい張ろうとしているのではない。時代通念を括弧にいれ、あるがままを記すというこうした判断中止に到達せざるをえないところまでおそらく図らずもやって来たのである。(178頁)

 西郷が言うように、道綱母がこの日記を書き残さざるをえなかったのも、このような判断中止を実人生の経験そのものによって迫られたことと無縁であろうはずはない。「肝心なのは、それがかの女に、生にたいするどういうまなざしを与えたかである。」(179頁)
 日記の冒頭で、道綱母は、「そらごと」が多い古物語とははっきりと一線を画し、自分の「身の上」をありのままに綴ろうと宣言する。この散文精神と先の夢に対する判断中止的態度とは、人生に対しての同じ自覚の表明なのだ。西郷は、道綱母の夢に対する醒めた態度は、懐疑ではなく、判断停止と見る。

人生の指針として深く夢を信じた神話時代が過ぎさり、そうかといってそれを救済すべき中世の宗教的ドグマがまだ形をなさない過渡期の平安中期には、「かかる身のはてを見聞かん人、夢をも仏をも用ゐるべしや、用ゐるまじやと、定めよとなり」といういいかたに示されているごとき断念の目で以て、どう落着するとも知れぬ混沌たるその経験世界を眺めようとする態度が、一つの極限状況として獲得されえたのではなかろうか。(179-180頁)

 『蜻蛉日記』の作者の自らの夢に対する醒めた態度を手がかりとして、その独自の散文精神が日本精神史においていかなる位置を占めるかを鮮やかに捉えた一文である。