内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

感情の零度としての自己

2018-02-18 00:00:00 | 哲学

 あらゆる感情が、生命にとって外在的な要因に本質的には拠らず、つねに自己触発的であるとすれば、私たちは、命あるかぎり、一瞬たりとも、けっして無感情ではありえない。
 そのことは、しかし、その多様な感情内容の総和が生ける自己だということを直ちに意味しない。なぜなら、自己がもし多数の感情の加算の結果あるいは多様な感情の時間的展開でしかないとすれば、自己は自己として自己によって把握され得ないからである。
 他方、一切の感情から超越した審級が自己なのでもない。なぜなら、そのような審級は、定義上、やはり自己として自己によって把握され得るものではないからである。
 動いてやまない感情がそこにおいて生成し、それとして受容され、かつそれ自体はいかなる感情によっても左右されることがない「場所」こそが自己と呼ばれるに相応しい。
 とすれば、自己は、あらゆる感情を可能にすると同時にいかなる感情によっても到達不可能な極限であり、その意味で、「感情の零度」として定義されうる。