フランス語の発表原稿を作成するときは、準備ノートも原稿自体も最初からフランス語で書くことは、過去に何度かこのブログの記事でも話題にした。
それは、日本語を介在させずにいきなりフランス語で考えるためであり、そのほうが原稿作成に時間がかからないからでもある。もちろん、引用する文献に日本語で書かれたものがあれば、それを仏訳する際には二言語間での思考の往還が要請される。しかし、その場合でも、いかにフランス語に「落とし込む」かという方向に注意は傾く。
とはいえ、フランス語のそれぞれの言葉の色合いが直感できるほどフランス語に熟達しているわけではない。どこまでいっても、フランス語は、私にとって、外国語というより、その微妙な真意を本当には感じ取れない異言語のままだ。これはもうどうしようもない。
同意語あるいは類義語を概念的には識別できても、それらの間の微妙な使い分けは私の貧しい仏語能力では感覚の次元にまで降りてこない。これまでの豊かとはいえない言語経験から帰納的に推論し、蓋然的な帰結を得るだけで精一杯だ。辞書は、引いてもこちらの探している答えが見つからないことが多いので、確認あるいは参考程度にしか使わない。
だから、文法的には大きな誤りがななく、一応意が通っている仏語は書けるが、言葉の組み合わせの適切さに関してはまったく自信がない。当然、論文集として出版される最終原稿は必ずネイティヴにチェックしてもらう。しかし、知り合いで信頼できる有能なフランス人たちは皆忙しいから、発表原稿のようないくらか長い文章のチェックは気軽には頼めない。
最近は、口頭発表原稿はもう事前には誰にも見てもらわない。その必要がないほど完璧な文章が書けるようになったからではもちろんない。単に、チェックを誰かにお願いする時間的余裕をもって原稿を仕上げられないだけのことである。それに、少しくらいおかしなフランス語だろうが、聞いてわかればいいじゃん、と、開き直る図々しさも身についた(自慢できることではないが)。
学科のフランス人の同僚たちは皆きわめて優れた日本語の使い手たちだが、厳密に言えば、その日本語はやはり完璧ではない。それでも彼らは日本語で立派に研究発表したり講演したりしているのである。私のフランス語はそれには劣るとしても、まあ許してちょうだいよ、と言えるレベルにはあると思う。完璧主義は外国語運用に際して障害にしかならないと思う。
普段、フランス語で授業していて、学生たちから先生のフランス語はわからんという苦情は受けたことがないし(って、思ってても本人に言うわけないか)、試験答案を採点していて、私の説明をちゃんと理解して書いてくれていることが確認できる場合も多いし、過去に何人かの学生から直々に「お褒めの言葉」を賜ったこともあるから、まあそうデタラメなフランス語は使っているわけではないとは言えると思う。
というわけで、3月の発表原稿も、もちろん自分なりには推敲を重ねたが、ネイティヴチェックなしで、昨日午後、学会責任者である同僚に送信した。締切りに遅れること11日。けっして褒められた話ではないが、とにかく先月末は仕事が立て込み、原稿どころではなかった。もちろん、事前に事情は説明して了解はとってあったし、自身学科長経験者であるその同僚も私の現在の立場をよく理解してくれている。それに、実のところは、この程度の遅れであれば学会の準備に支障を来すこともないようである。
これから来月21日の発表までまだ一月以上ある。原稿を少し「寝かせた」後、さらに推敲を重ねていくつもりである。発表のテーマが『万葉集』の多声部からなる一歌群の演劇的構造の分析であることはすでに過去の記事で述べたが、今回、国際演劇学会での発表ということもあり、発表の展開そのものにも演劇的構造をもたせてある。だから、推敲といっても、それは単に発表原稿の文章を彫琢することではなく、発表の「演出」と「舞台稽古」もその過程には含まれている。