内的自己対話-川の畔のささめごと

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唐木順三『詩とデカダンス』を読む(二)

2015-02-17 18:35:47 | 読游摘録

 『詩とデカダンス』は、一九五二年の創文社刊行の初版では、「事実と虚構」「狂の諸相」「教養ということ」の三部構成、一九六六年の講談社版では、それにさらに四篇が「近代における芸術の運命」というタイトルの下に追加されている。私の手元にある中公選書版では、この中から「教養ということ」が省かれている。
 私自身の問題関心からすると、第一部「事実と虚構」と第二部「狂の諸相」が特に興味深い。そこには、思索家(デンカー)と呼ばれることを自ら望んだ唐木の思想家としての資質がよく出ている。すでに出来上がった考えを建築物のように積み重ねるのではなく、およそのプランだけで書き始め、何人かの文学者・思想家・哲学者たちの著作を読みながら、それらとの対話を繰り返し、自らの思索を展開しつつ書いていることが、読んでいてよく分かる、その過程で、今もこちらに問いかける力を持っている鋭い問題提起と、人間の命運についての柔軟で独自な洞察が生まれてくる。後年の著作に見られる自在な筆致に比べると、西洋の著作家たちへの言及が多いせいもあるのか、文章がやや固く、しかもどこか切迫感が感じられる。それは昨日引用した「新版のための序」で回顧されているような当時の緊張感を孕んだ問題意識を反映しているということでもあるのだろう。
 初版一九五二年版の「あとがき」を読むと、唐木において、西洋近代批判と日本の風狂の文学がどのように切り結ぶのかがよくわかる。

デカダンスは一言にしていえば、旧い側からの超俗、脱俗、離俗の精神である。西洋でいえばブルジョワに対する貴族的、詩人的抵抗の精神と行動であった。富のために富を追求することを本質とするブルジョワジイに鋭く対立し、浪費と放蕩と無頼の生活の中から美しくかなしい詩篇を結晶せしめて亡び去ったことはひとの知る通りである。我国の風狂、風流も、俗世間、俗物と対立するものであることはいうまでもない。然し、それは単にブルジョワに対立するばかりでなく、ひろく人間のうちにひそむエゴイズム、或いは私意、執着と対立し、それを斥け笑い、みずから自然のうちにとけこみ、自然とともに去来することをもって本分とした。自然と人為、空と色、事実と虚構の問題は、風狂、風流を深く考えてゆくとき、どうしても当面せざるをえないものとして出てくる。東洋の詩人たちは、自然、空、事実の哲学を、吹き来たり吹き去ってとどまらない自在の風として感覚した。風狂、風流はこのような風性を背景にして初めてよく風狂、風流であったのである(255-256頁)。

 この引用の中に出てくる「自在の風」として感覚され、詩人たちによってその生活そのものとして生きられた「哲学」、それを唐木は自分自身の課題として『詩とデカダンス』の中で追究しているのである。