内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

俳諧と俳句

2015-02-13 23:55:55 | 講義の余白から

 今日から学部三年生の講義「近世文学史」は、俳諧に入った。まずは教科書に沿って、前期に学んだ中世の俳諧の連歌を振り返ってから、近世に入り、貞門、談林派、芭蕉とちょうど三段跳びのように俳諧史を一時間ほどで辿り直し、いよいよ芭蕉の俳諧の説明を始めた。今日のところは、芭蕉自身があたかも俳諧史を生き直すかのような階梯をたどった前半生から、いよいよ蕉風の確立へと『野ざらし紀行』の旅に出て以降、旅に生きながら傑作を生み出しつつ、『奥の細道』に至る俳諧の道を一気に素描した後、小西甚一の『俳句の世界 発生から現代まで』(講談社学術文庫)の「はじめに」の最初の節「俳諧と俳句」からの抜粋を読ませ、俳諧と俳句との決定的な違いをしつこいほど強調した。
 というのも、「Haïku」という言葉はフランス語にも入っていて、フランス語による実践もあったりして、それはそれでどうぞご自由にというところだが、日本文学史をまるで無視して、「ハイク」(こう片仮名でかくと、まるでヒッチハイクみたいではないか)を振りかざすのだけはやめてほしいとかねがね思っていて、せめて日本学科の学生だけでも俳諧と俳句の違いはしっかりと理解してほしいと切望しているからにほかならない。小西甚一の本は、もともとが素人にもわかるように噛んで含めるように行われた講義がもとになっているので、こういう場合に援用するのに好都合なのである。
 以下が今日学生に読ませたその抜粋である。

 そもそも、正式連歌の時代から俳諧連歌にいたるまで、共通の特色がふたつある。その第一は、作る者と享受する者とが同じグループの人たちであること、第二は、それを制作ないし享受するための特殊の訓練が要ることにほかならない。
 平安時代以来、作る者と享受する者とがはっきり別である種類のわざは藝術にあらずとする意識が、根づよく存在した。もちろん、その反対は、藝術なのである。いまわたくしたちは、画や彫刻を藝術だと意識する。しかし、それらは、昔の人たちにとっては、けっして藝術ではなかった。それらは工藝品にすぎず、その作者たちは工(職人)なのである。かれらにとっての藝術は、書であった。書の巧みな人は、りっぱな藝術家として尊敬された。なぜなら、書を享受する人は、同時に書を制作する人だからである。和歌も藝術であった。和歌を作る者が、同時に和歌を享受する人だからである。しかし、物語(小説)は、藝術でない。なぜなら、自分で物語を作る者だけが物語を享受できるとは決まっていないからである。その意味において、俳諧は、藝術であることができた。
 次に、俳諧を享受するためには、特別な心得が要る。[…]もっと根本的には「この句のどこがおもしろいか」を感じとる感じかたまで、ちゃんとした筋道があり、それを体得するのでなければ、正しい理解のしかたは、無益でもあり有害でもあるとされる。そこには、特殊な享受のしかたを訓練された人たちだけの構成する世界ができるわけで、その世界のなかに身を置かないと、俳諧を享受することができない。だから、俳諧は、ひとつの「閉鎖された世界」であり、また「自給自足の世界」でもあって、どこからでもおいでなさいの自由貿易国ではない、その点は書でも 和歌でも、同じことである。
 ところが、俳句になると、すっかり逆である。俳句とは、正岡子規による革新 以後のものをさすのだが、それは、かならずしも作者イコール享受者であることを要求しない。俳句つくりだけを職業としても、世間は藝術家だと認めてくれる。 俳句を作らない俳句評論家が出ても、俳壇から蹴り出される心配はない。もっとも、事実としては、作者イコール享受者の傾向がなかなか根づよく、それが俳句は第二藝術なりとする桑原旋風をまきおこす原因ともなったのだが、原則としては、けっして作者イコール享受者を主張しない。そこに、俳諧との明確な差がある。 また俳句を享受するために、特別な訓練を要求することもない。普通にものごとを理解できる人なら、誰でも享受してくださいである。[…]要するに、俳句は 「開放された世界」なのである。それが子規による革新のいちばん重要な眼目でもあった。

小西甚一『俳句の世界』、二〇-二二頁。

 この抜粋を読み終えたところで今日の講義は終了。その直後のオフィスアワーで、学部二年生の二人の女子学生が、「比較文学」の演習で俳句について発表することにしたから、アドヴァイスがほしいとのかねてからの約束でやってきた。そこでちょうど今日の講義で話したことをもう一度繰り返し、さらに近代俳句と日本の近代化の関係について一席打ったら、あっという間に一時間過ぎてしまった。最後に、学生たちが、その発表の中でいくつか俳句を紹介したいと言うから、だったらフランス語にその主要な小説がすべて訳されている上に、俳句集の仏訳まである漱石の俳句がいいのではないかと、私も大好きな二句を候補として挙げておいた。その内の一句は、このブログでもかつて紹介した