内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

クロード・レヴィ=ストロース『月の裏側 日本文化への視角』を読みながら(十)

2015-02-07 13:28:08 | 読游摘録

 昨日まで九回に渡って紹介してきたレヴィ=ストロース『月の裏側 日本文化への視角』も、今日の記事がその最終回になる。
 同書の巻末には、一九九三年にNHKの番組のためにパリで収録された訳者K先生とレヴィ=ストロースとの対談の後半部だけが収録されている。前半部は、人類学におけるアメリカ研究に関しており、同書の趣旨から外れるという理由で収録されなかったのであろう。
 「対談」となっているが、実質的には、主にK先生からの質問にレヴィ=ストロースが答えるという形になっている。少年時代の浮世絵への熱中から始まって、日本への関心の由来とその発展と中断の経緯、初めての日本旅行ときの第一印象、日本の自然の美しさ、日本料理への賞賛、美しい景観と悲しむべき対照をなす日本人の自然の扱い方の粗暴さ等の話題について話は展開していく。
 日本文化の現状の中で「野性的なもの」を保つことの重要性について問われて、レヴィ=ストロースは次のように答える。

 私は、「野性的なもの」をそれほど再評価したわけではありません。私は「野性的なもの」が、私たちすべてのなかに存在し続けているということを、示したいと思ったのです。そして、「野性的なもの」がつねに私たちたちのなかにある以上、それが私たちの外にあるからといって、それを蔑視すべきではないだろうと思うのです。
 このことは、すべての文明について言えると思います。けれども、私が人類学者として賞賛してきたのは、日本がその最も近代的な表現においても、最も遠い過去との連帯を内に秘めていることです。それに引き替え私たちはと言えば、私たちに「根っこ」があることはよく知っていますが、それに立ち戻るのがひどく難しいのです。私たちがもはや越えることのできない、溝があるのです。私たちはその「根っこ」を、溝のこちら側から眺めています。日本には、こう言ってよければ、一種の連続性ないしは連帯感が、永久に、ではおそらくないかもしれませんが……今もまだ、存在しています(142-143頁)。

 私はこの一節を読んで、俄にそのままレヴィ=ストロースの言うことに同意することはできないが、あるいは、それはこちらがその「根っこ」との連続性を意識化できていないからだけなのかもしれないとも思う。それとも、このような「根っこ」との連続性は、レヴィ=ストロースが九州を旅行したときに強く感じたという神話的世界の現前・歴史と神話との連続性のように、日本のある特定の地域にはまだ息づいているということなのだろか。
 日本は、国際的文化交換において、発信者であるよりは受信者であったというK先生の見解に対して、レヴィ=ストロースは、それを認めた上で、縄文文明の独創性を強調する。そして、その根源での日本の特殊性は、「他所から受け入れた要素を洗練し、それをつねになにかしら独自のものにしてゆく力を具えていた」と主張する(147頁)。
 西洋は、長い間日本から倣うべき手本とみなされてきたが、西洋を破滅させた悲劇的出来事と、西洋を現実に引き裂いている危機を前にして、日本の若者たちが、最早西洋は見倣うべき手本ではない、これからは我々自身が独自の手本を創り出してゆくのだ、と言うのをしばしば聞いているとレヴィ=ストロースは言う。そのような発言に対して、日本に願いうること、期待しうることのすべては、この西洋という手本に対して、「日本人が過去に示したのと同じ独創性を保ちうること」であり、「この独創性によって、日本人は私たちを豊かにしてくれることができる」のだと応える(同頁)。
 この対談は、K先生の「人類の歴史のなかで、人間が生きることにとって、最適の段階があったと考えるか」という問いに対する答えによって結ばれている。
 そのような段階がどんなときかについて、レヴィ=ストロースはこう簡単に述べている。

人間と自然とのあいだ、人々とさまざまな自然の種のあいだに、ある種の均衡があり、人間が主人で創造主であると思い込むことがありえず、人間が尊重すべき他の生きものたちと同時に、この創造に参与したことを知っていたとき(148頁)。

 そして、このようなときが、さまざまな形で、さまざまな時代にあっただろうことは認めつつ、唯一確かなこととして言えるのは、「それが今ではないことです」と断言する。K先生からの「そして未来に、でもありませんね?」という最後の問いかけに対しては、「それは、私にはますます信じられなくなっています」と答える。
 この対談から二十年以上が経過している今日、人類はますますこの「最適な段階」から遠ざかってしまっていると結論づけることを妨げる希望の欠片を、私たちは見出だすことができるだろうか。